水野屋敷(みずの)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 水野忠守か
 遺構  : なし
 交通  :JR川越線西川越駅徒歩5分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』には、「水野屋敷跡 法心寺の地続きにして南の方なり 
          今は陸田となる」とある。同書の法心寺の項には、水野織部忠守の次男多宮守重
          が中興の祖であると記されているが、寺伝では守重の没年を天正元年(1573)と
          していることから、徳川家臣である忠守・守重父子が同十八年(1590)の徳川家康
          の関東入国以前に同寺を中興することは難しいとして疑問を呈している。そもそも、
          守重は江戸時代に旗本となっているため、少なくとも没年については誤りである。
           江戸時代には、小室村は三枝土佐守家の所領であったとされる。同家は、武田
          二十四将に数えられる三枝昌貞(守友)の子守吉にはじまる。守吉の子守重(守恵)
          は徳川家光の小姓となり、慶安四年(1651)の家光が死に際して殉死した。水野
          屋敷については、水野守重と三枝守重を取り違えたとも考えられる(両者は同時代
          に生きていたが、前者の方が後者より長生きである)。他方で、『記稿』にによれば
          多宮守重の法名は小室院月叟法心居士とされる。これが正しければ、多宮と小室
          村には関係があったと推定できる。
           三枝家は、元禄十一年(1698)に近江国内へ所領替えとなった。小室村の処遇
          については詳らかでないが、おそらく幕府直轄領となり、屋敷も遅くともこのときに
          廃されたものと推測される。


       <手記>
           『記稿』に屋敷跡と書かれている法心寺の南側は、現在線路や県道および宅地
          となっていて、それらしき痕跡はまったくみられません。法心寺境内も、遺構どころ
          か案内等もなく、手がかりは皆無です。
           そもそも江戸時代初期までは存在したと思われるにもかかわらず、記録が混乱を
          きわめており、残念な限りです。

           

法心寺。


BACK