太田館(おおた)
 別称  : 館ヶ崎館、太田館山城
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 曲輪跡か
 交通  : 三陸自動車道桃生豊里ICから車で3分


       <沿革>
           安永五年(1776)成立の『安永風土記』によれば、前九年の役で源義家が安倍貞任を
          攻めるために当地へ赴いた際に「御住居」としたと伝えられるとある。


       <手記>
           古川沿いに細く突き出た丘陵の先端部に位置しています。現状は休耕地で、南西麓に
          標柱が建ち、その北側から上がることができます。安永風土記の編纂時には既に「芝山」
          となっていたそうで、明確な遺構は認められません。
           一方、国土地理院地図の古い航空写真を参照すると、周囲より1段高い台形の区画が
          はっきり見て取れます。現地標柱には「西が本丸、東が二の丸」とする指摘が付記されて
          おり、事実とすれば細尾根でつながった東側の丘が二の丸ということなのでしょう。ただ、
          尾根から向こうはド藪で、とても行けそうにありませんでした。鞍部の本丸側付け根には
          わずかに堀切跡と見えなくもないような凹みがみられますが、可能性は薄そうです。
           やはり、直感的には先述の台形区画に単郭の館城が営まれていたとみるのが妥当で
          しょう。また、源義家がここに居住したというのも、にわかには信じられません。

           
 南から太田館跡を望む。
館跡標柱。 
 郭内のようす。
郭内からの眺望。 
 二の丸跡との指摘のある東側の
 丘を望む。
館跡東側細尾根の堀切跡に見えなくもない凹地形。 


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