本篠城(もとしの) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 財田義宗か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR予土讃線讃岐財田駅からバスに乗り、 「川上総合センター」下車徒歩40分 |
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<沿革> 延元年間(1336〜40)に、財田左兵衛頭義宗によって築かれたと伝わる。財田氏の出自に ついては不明である。義宗は南朝に属し、同二年(1337)に北朝方と戦って敗れ、本篠城も 落城したともいわれる。 天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親が讃岐へ本格的に侵攻し、5千余の兵で本篠城を 攻撃した。城主財田和泉守常久は勇猛を以て知られたが、城兵はわずか200名で、主筋で ある天霧城主香川氏の救援もなく、奮戦したものの衆寡敵せず落城した。このとき、常久は 長宗我部軍の横山源兵衛に討ち取られ、城方の秋山主水が源兵衛を討って主君の首級を 取り返したが、源兵衛の子源三郎が父の仇とて主水を討ったとされる。 こうして財田氏は滅び、本篠城には長宗我部家臣中内藤左衛門が城将として入れられた。 天正十三年(1585)、豊臣秀吉によって四国が平定されると、本篠城も廃城となった。平定戦 において、本篠城で攻防があったか否かは定かでない。 <手記> 本篠城は、財田川の支脈を遡った山間の峰上に築かれた山城です。途中の本篠荒魂神社 門前付近に地元中学生の制作した本格的な縄張り図付きの説明板があり、道路も広くなって いるので車もこのあたりに停めるとよいでしょう。ちょうど目の前には、地図で見るよりも山容 の険しい城山が鎮座しています。 そこから登城口までは一本道で、先端下に石碑ともう1つ説明板があります。登山道が整備 されているため、外観ほど登りはきつくありません。旧道とみられる堀底道が脇に現れたら、 ほどなく北端の堀切に到着します。この堀切は、脇に浅い竪堀を伴っているのが特徴です。 本篠城は前方と後方に2本ずつ堀切を穿ち、頂部は大まかに、主郭とそれを取り巻く帯曲輪 状の副郭から成っています。主郭と副郭の高低差はあまりありません。主郭自体も東西2段に 分かれていて、両者の境には土塁が設けられ、下段は武者隠しのようになっています。 また、副郭南端には「突出部」があり、『日本城郭大系』や現地説明板では、城内の大きな 工夫として特筆しています。たしかに、通路を兼ねていたと思われる大きな竪堀が、突出部に 脇腹を見せる形で延びており、横矢の仕掛けとも見えますが、これが意図的な造作なのか、 自然地形に合わせて偶然そうなったのかは議論の余地があるのではないでしょうか。 とはいえ、南からの攻撃に対する備えをより意識していたことは間違いないと思われ、南側 1条目の堀切は、城内で最も規模が大きく堅固といえます。全体としてコンパクトかつ機能的 にまとまっており、とても見応えのある城跡といえるでしょう。 |
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本篠城跡を望む。 | |
本篠荒魂神社門前の説明板。 | |
登山口の城址碑と説明板。 | |
北端の堀切。 | |
堀切と接続している竪堀。 | |
2条目の堀切。 | |
副郭北端の虎口跡。 | |
主郭の切岸。 | |
主郭のようすおよび主郭土塁。 | |
主郭下段のようす。 | |
主郭土塁南端付近のようす。 | |
主郭南側の副郭のようす。 | |
副郭南端の「突出部」。 | |
突出部脇の竪堀。 | |
南側1条目の堀切。 | |
同堀切から続く竪堀。 | |
2条目の堀切。 |