本山土居(もとやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 本山氏
 遺構  : 曲輪、石垣
 交通  : JR土讃線大杉駅よりバス
       「本山プラチナセンター」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           戦国時代中期に戦国大名化した本山氏の土居として築かれたとみられている。
          本山氏は後に長宗我部氏に降伏し、天正十七年(1586)に「長宗我部検地」が
          行われた時点では、本山采女が居住していたとされる。
           関ヶ原の戦いでの功により山内一豊が土佐に入部すると、慶長六年(1601)に
          家臣永原一照(山内刑部)が本山に1300石余を与えられた。一照は本山土居を
          居所とし、同八年(1603)に本山一揆を鎮圧すると2500石に加増された。しかし、
          一照の子一長は私曲の廉で所領を没収され、本山領は収公された。
           寛永七年(1630)、奉行職の野中直継が本山に封じられた。直継の婿養子の
          兼山(良継)は、2代藩主山内忠義のもとで藩政改革や土木事業に辣腕を振った。
          しかし、3代忠豊の代になると、兼山の方針や出世に不満をもつ他の家臣に弾劾
          され、寛文三年(1663)に失脚した。
           その後、本山土居は兼山に代わって家老となった孕石元政や幕末の家老山内
          下総(酒井勝作)らによって管理されたが、明治維新とともに建物が取り壊された。


       <手記>
           本山土居跡は現在上街公園となっていて、地元の子供たちや家族連れの憩い
          場となっています。車で来る場合は、北東隅下に駐車場があります。四周の石垣
          と上下2段の曲輪跡が残り、南正面には詰城の本山城址が目の前に望めます。
           吉野川河岸のさらに一段高い半独立丘にあり、本山市街でもとくに重要な地点
          にあるといえます。長宗我部氏時代の本山氏当主本山親茂は元親の甥にあたる
          重臣です。本山土居にいたとされる本山采女は、そんな本山家中にあってかなり
          有力な親族だったのではないかと拝察されます。

           
 土居跡標柱。
駐車場脇の説明板。 
 南辺の石垣。
東辺の石垣。 
 北辺の石垣。
土居内のようす。 
 本山土居から本山城址を望む。


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