本山城(もとやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 本山氏
 遺構  : 曲輪、石垣、堀
 交通  : JR土讃線大杉駅よりバス
       「本山」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           土佐七雄の1つに数えられた豪族本山氏の居城である。本山氏の出自については、
          『土佐物語』に「八木伊典といふものが 何の頃にか 本山に来たりて居住す。其の子
          養明 其の子茂宗まで三代 本姓を改めて本山と号す」とある。八木氏は、紀貫之の
          『土佐日記』にも登場するほど古くから土佐に勢力をもっていた一族だが、八木伊典の
          実在については裏付けがない。史料上は、伊典の子とされる本山養明(実茂)が初出
          である。このころまでには本山城が築かれ、本山氏の居城となっていたものと考えら
          れるが、詳細は不明である。
           養明の子梅慶(茂宗、清茂)の代に本山氏は戦国大名化し、最盛期を迎えた。高知
          平野に進出した梅慶は朝倉城を築いて移り、本山城を嫡男茂辰に任せた。弘治元年
          (1555)梅慶が死去すると茂辰が家督を継いで朝倉城へ移ったが、後任の本山城主
          については定かでない。茂辰の代になると長宗我部氏に平野部の領地を蚕食される
          ようになり、永禄六年(1563)に茂辰は朝倉城を焼いて本山へ撤退した。
           翌永禄七年(1564)に茂辰が死去し(異説あり)、その子貞茂が跡を継いだ。貞茂の
          母は長宗我部元親の姉である。元親は、潮江城主森孝頼を送り込み、本山家臣団の
          切り崩しを図った。孝頼は本山の隣領森郷の在地領主だったが、本山氏に逐われて
          長宗我部氏を頼っていた。ある夜、孝頼は本山城を急襲し、貞茂は城を討って出よう
          としたが家臣に押しとどめられ、瓜生野の山中に退いたとされる。永禄七年中のこと
          ともいわれるが、詳しい時期は明らかでない。本山城には長宗我部氏重臣中島親吉
          が城代として入った。
           元亀二年(1571)、貞茂はついに元親に降った。独立勢力としての本山氏は滅んだ
          が、元親の甥ということから貞茂は厚遇され、親茂と改名して元親の嫡男信親の家老
          となった。
           天正十一年(1583)の引田の戦いで親吉の嫡男重勝が討ち死にし、その子重房は
          文禄元〜二年(1592〜93)の文禄の役で戦功を挙げ、窪川城代に任じられた。親吉
          の没年は定かでなく、このころの本山城の扱いについては定かでない。また親茂は、
          天正十四年(1587)の戸次川の戦いで戦死した。本山氏には、山麓の本山土居
          預かっていた本山采女や親茂の叔父本山茂定などの親族があったが、本山城を引き
          継いだ人物がいたのかははっきりしない。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易され、山内一豊が土佐一国
          を与えられると、翌六年(1601)に永原一照(山内刑部)が1300石余で本山に封じら
          れた。一照は本山土居を居所としたため、遅くともこのときに本山城は廃城となった
          ものと推測される。

       <手記>
           本山城は、本山市街に向かって突き出た山塊の尾根を利用して築かれています。
          登るには、何はともあれまずは東麓の十二所神社を目指します。その門前に案内板
          があり、それに従って西へ入っていけば、後は要所要所にまた案内があるので迷う
          ことはありません。途中、沢を渡った先に説明板がり、その背後は竪堀となっている
          ように見えます。
           城は大きく3段の曲輪から成っていて、頂部の曲輪は天守台程度の広さしかなく、
          本丸というよりは詰曲輪といった感じです。その下がおそらく本丸で、周囲は石垣で
          固められています。とくに北辺は折れと虎口の付いた3段の石垣となっていて見応え
          があります。3段になっているのは高石垣を組むだけの技術がなかったからと思われ、
          おそらく長宗我部氏時代の遺構と拝察されます。
           本丸の下は、三方を囲む幅広の帯曲輪となっています。この曲輪の南西隅と北西
          隅には直線状の石積みがあり、一見すると城の遺構のように思われます。ですが、
          こちらのサイト様によれば、これは後世に射的場として造られたものだそうです。
           詰曲輪の背後には、1段の腰曲輪とその奥に最後尾と思われる堀切があります。
          全体としてはコンパクトながらよくまとまった城で、本山氏の格式にふさわしい城だと
          思います。

           
 本山土居から本山城址を望む。
詰曲輪の石碑。 
 本丸から詰曲輪を望む。
詰曲輪背後の切岸。 
 詰曲輪背後下の腰曲輪。
最後尾の堀切。 
 本丸の3段石垣。
同上。 
 本丸東辺の石垣。
本丸下の帯曲輪。 
 帯曲輪西部分の石積み。
帯曲輪北西隅の石積み。 
どちらも後世のものだそうです。 
 本山市街の眺望。
登城途中の説明板と竪堀跡と思しき地形。 
 十二所神社門前。
 城跡へはここから右方に向かいます。
神社へ続く道から本山市街を俯瞰。 


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