馬込城(まごめ)
 別称  : 梶原城、馬篭城
 分類  : 平山城
 築城者: 梶原氏
 遺構  : なし
 交通  : 地下鉄浅草線西馬込駅徒歩5分


       <沿革>
           城跡比定地の東にある萬福寺は、梶原景時の創建とされる。寺伝によれば、正治二年(1200)の
          梶原景時の変で滅ぼされた梶原一族のうち、景時の孫景望が鎌倉幕府に赦され、旧領の大井村を
          与えられた。元応二年(1320)、火災により萬福寺は焼失し、ときの当主梶原景嗣が馬籠村に寺を
          再建し、居城も馬籠に移したとされる。これが正しければ、馬込城はこのときに築かれたものと推測
          される。ただし、梶原氏の系図に景嗣の名はみられない。
           応永年間(1394〜1427)の鎌倉公方の奉行人に梶原持景の名があり、『梶原系図』によれば、
          持景の子経景は「武蔵国荏原郡馬篭」に住していたとされる。『系図』では経景の子時景と続くが、
          幕府奉行人としての馬込梶原氏の動向は、戦国時代に入るころには途絶えている。
           永禄二年(1559)に編纂された『小田原衆所領役帳』によれば、梶原助五郎が馬込村に32貫文余
          の役高を有している。助五郎と奉行衆梶原氏の関連は不明だが、一族縁者の可能性は十分に考え
          られる。馬込城は助五郎の居城であったと類推されているが、確証はない。


       <手記>
           馬込城は周辺に複雑に入り組む丘陵の一端に築かれた城で、東を除く三方が斜面となっています。
          とくに南側の谷は深く、かつて沼や深田となっていたそうです。また北側の谷には東西を結ぶ古道が
          走り、城に沿うように南坂と呼ばれる急坂があります。
           東は北野神社、西は湯殿神社、南は白田坂下、北は区立馬込図書館までをおおよその城域とし、
          根小屋(生活区域)は城の西側に設けられていたそうです。
           城跡を示すようなものは、とりたてて残っていません。湯殿神社や南坂などの地形要素から往時を
          偲ぶのみです。城の北側の長音寺からは、冬晴れの日には富士山が望めます。

           
 馬込城西端の湯殿神社。
城の南側にある区立郷土博物館から馬込城址を望む。 
 城の北側にある南坂。


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