鍋島氏館(なべしまし)
 別称  : 御館
 分類  : 平城
 築城者: 鍋島経秀か
 遺構  : なし
 交通  : JR長崎本線佐賀駅よりバス
       「鍋島本村」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           後に佐賀藩主家となる鍋島氏は、山城国長岡の住人長岡経秀が、肥前国佐嘉郡鍋島村に下向
          したことにはじまるとされる。長岡氏は、隠岐次郎佐々木泰清の二男時清の子孫清綱にはじまると
          される。経秀の下向は永徳年間(1381〜84)ともいわれるが、定かでない。
           鍋島氏を称した経秀は千葉氏に属していたが、経秀の子経直は少弐氏に従った。『鍋島系図』に
          よれば、経直は少弐家臣龍造寺氏に接近し、応永年間(1394〜1427)の末ごろに龍造寺氏の居城
          村中城(後の佐賀城)の西の本庄村に移住した。経直が龍造寺氏を頼った理由は詳らかでない。
           経直が本庄館へ移ると、鍋島村の館は廃されたものと推測される。なお、経直は娘を少弐教頼の
          側室に差し出し、教頼が応仁二年(1468)に自害すると、2人の間に生まれた経房に家督を譲ったと
          される。以降、鍋島氏は源姓佐々木氏流ではなく、少弐氏の藤姓を称した。


       <手記>
           旧鍋島村は佐賀市街の北西に位置し、現在は佐賀大医学部の鍋島キャンパスがあり、周辺には
          新興住宅地が広がっています。鍋島氏は日本有数の大大名であり、そのはじまりの地であるにも
          かかわらず、鍋島氏館がどこにあったのかは確定していません。
           鍋島地区の北端付近、嘉瀬川の河岸近くに「御館の森」と呼ばれる一角があり、ここが鍋島氏館
          ではないかと目されています。市史跡に指定されているものの館跡と断言することはなく、「鍋島家
          発祥の地 御館の森」と題された説明板と石碑が設置されています。この場所は田地のなかに土居
          で囲まれた方形の小区画なのですが、これを館跡とするには狭すぎるように思われます。宝篋印塔
          のようなものが数基見受けられるので、おそらく神社かお堂があったのでしょう。実際のところ、鍋島
          氏がここに住んでいたのは数十年程度のことなので、遺構はすでに埋没してしまったのでしょう。
           ところで、鍋島直茂以下、近世鍋島家は藤原姓を名乗っていました。ですが、娘の子に跡を継が
          せたからといって、家の出自を娘婿の姓に改める必要性があるかというと、当時の慣習を鑑みるに
          不自然と思われます。その背景には、龍造寺氏から佐賀藩主家の座を禅譲させた直茂の負い目が
          感じられるように思います。龍造寺氏は藤原姓であり(佐賀城の項参照)、また少弐氏は龍造寺氏
          の主筋にあたるため、鍋島氏の出自を藤姓少弐氏流とすることで、龍造寺氏から鍋島氏への禅譲
          に正当性と名分をもたせようとしたのではないかと、私見ながら考えられるのです。
           この推測が正しいとすると、源姓の鍋島経秀・経直父子は近世鍋島氏にとっていささか不都合な
          存在といえます。佐賀城のすぐ近くにありながら、鍋島村が鍋島家発祥の地として顧みられることが
          なかったというのも、こうした事情によるものと考えると、納得がいくように感じられます。

           
 「御館の森」周辺のようす。
「御館の森」石碑と説明板のある小区画。 


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