渚城(なぎさ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小笠原長秀
 遺構  : なし
 交通  : 松本駅徒歩10分


       <沿革>
           応永七年(1400)の大塔合戦に敗れ、信濃守護職を解任された小笠原長秀は、京へ逐電
          した後に信濃へ戻り、渚城に住したと伝わる。事実とすれば、同十二年(1405)に小笠原氏
          の家督と所領を弟の政康に譲って以降のことと推察されるが確証はない。また、既にあった
          城館を取り立てたのか、新規築城であったのかも不明である。
           長秀は応永三十一年(1424)に没し、代わって小笠原氏庶流の島立氏が渚城に入ったと
          する説もあるが、やはり確証はない。天文年間(1532~55)に、常徳寺が城の跡地に創建
          されたと伝わることから、廃城はそれ以前とみられる。


       <手記>
           奈良井川と田川の合流点に臨む平城です。前出の常徳寺が今も残り、その門前に石碑や
          説明板が設置されています。それによると、渚城はおよそ上に図示したような、二重の堀に
          囲まれた方形の城で、南西が欠ける形になっていたようです。かつての野麦街道は城跡に
          沿うように北辺から西辺へと迂回しており、後に本丸跡を斜めに貫通するように新道が設け
          られたそうです。
           長秀が居城としたという証拠はないようですが、南東には小笠原氏の守護所・井川城
          あり、弟を補佐する名目で近くに支城を構えていたとしても不思議ではないでしょう。それに
          しても、海もないのに渚城とは、なんともハイカラな名称ですね。

           
 常徳寺前の石碑と説明板。
常徳寺。 
 本丸跡現況。


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