前田城(まえだ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 前田与十郎か
 遺構  : なし
 交通  : 近鉄名古屋線伏屋駅徒歩7分


       <沿革>
           前田与十郎家の居城とされる。与十郎家は前田利家を輩出した荒子城主前田家の
          本家にあたるともいわれるが、利家の父利春(利昌)より前の系譜は詳らかでない。
          そもそも前田氏は、前田城のある尾張国前田村が発祥とも、美濃国安八郡前田村に
          興った斎藤氏庶流の前田氏(前田玄以らの祖)の分流ともいわれ、その出自は判然
          としない。前田城主と伝わる前田種利は、利春の伯父にあたるともいわれる。利家も
          前田城で生まれたとする説もあるが、確証はない。
           種利の子種定(長定)は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに伴う蟹江城
          合戦において、羽柴秀吉に内応して蟹江城を滝川一益に明け渡した。種定の子長種
          の拠る前田城も父に続いたが、徳川家康と織田信雄が蟹江城を迅速に攻め降した
          ため、前田城ないし下之一色城にいた長種も降伏を余儀なくされた。種定は妻子とも
          ども殺害され、長種は利家を頼って落ち延びた。
           これにより、前田城は廃城となったと推察される。前田城跡に比定される速念寺の
          縁起によれば、利家の叔父利則が出家して意休と号し、初代住職となったとされる。


       <手記>
           速念寺の門前に前田城址碑があり、境内には利家の出生地とする表示がちらほら
          と見受けられます。ただ、前田氏の経歴には諸説あるものの、利春が与十郎家とは
          別系統である点では異論はなさそうなので、やはり荒子城の生まれとするのが自然
          でしょう。
           遺構はありませんが、境内にはほかに与十郎の墓もあります。そしてなにより目に
          つくのが、おそらく利家の兜を模したと思われる、天を衝くような前衛的なデザインの
          本堂でしょう。

           
 速念寺。
山門前の城址碑。 
 本堂。
 利家の兜を模したデザインと思われます。
境内にある前田与十郎之墓。 


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