蟹江城(かにえ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 北条時任か
 遺構  : 井戸跡
 交通  : JR関西本線蟹江駅徒歩7分


       <沿革>
           永享年間(1429〜41)に、北条時任によって築かれたと伝わる。時任は中先代の乱で
          知られる北条時行の次男時満の子といわれるが、確証はない。また、築城主として渡辺
          源十郎の名も伝わり、蟹江城の草創については詳らかでない。
           弘治元年(1555)、今川氏が織田方の蟹江城を攻撃し、この戦いで活躍した今川麾下
          の松平氏家臣7名は、「蟹江七本槍」として賞された。その後は荷之上城主服部友貞が
          預かっていたとみられるが、いずれかの時期に織田家臣滝川一益の居城となった。
           天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家・織田信孝方に属した一益は、戦後に
          所領を没収され出家した。その領地は織田信雄のものとなり、佐久間信盛の子信栄が
          蟹江城主となった。
           翌天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦いが勃発すると、一益は羽柴秀吉方として
          参戦し、蟹江城の調略を任された。当時、信栄は蟹江城を離れていて、叔父の信辰と
          前田城主前田種定(長定)が留守を預かっていた。このうち、種定は一益に通じて信辰
          を追い出し、一益・九鬼嘉隆ら3千の兵を海路招き入れた。これに、前田城・下市場城・
          下之一色城も同調したが、従わなかった大野城の攻略に手間取っている間に、徳川
          家康および信雄の援軍が到着したため、一益らは蟹江城に籠城した。城は半月ほど
          持ち堪えたが、ついに和睦・開城した(蟹江城合戦)。このとき、退去中の種定が家族
          もろとも殺害されているが、家康の命とも、一益によるものともいわれる。
           戦後、蟹江城はそのまま廃城となったとみられるが、処遇については詳らかでない。
          たとえ存続していたとしても、翌天正十三年(1583)の天正地震により、城地は壊滅的
          な被害を受けている。


       <手記>
           上述の通り、蟹江城跡は天正地震で破壊され、地形から変わっているようです。上に
          図示した2か所に、城址碑および説明板と井戸跡があります。とくに井戸は本丸のもの
          と伝わり、事実とすれば城の位置を示す貴重な遺物といえるでしょう。一方でこの井戸
          は生活道路を半分ほど塞ぐ形で佇んでおり、もともと車が通るには狭い路地とはいえ、
          地域でも邪険にされず大切にされているのだなと感じられます。

           
 蟹江城址碑と説明板。
本丸井戸跡。 
 本丸の西を流れる蟹江川。つまり、カニエ・ウェスト!
 すみません、言ってみたかっただけです笑


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