奈倉館(なぐら)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 奈倉行家
 遺構  : 土塁、虎口
 交通  : 西武秩父線西武秩父駅または
       秩父鉄道秩父駅からバス。
       「泉田」下車徒歩10分


       <沿革>
           秩父平氏庶流奈倉氏の居館とされる。奈倉氏は奈倉加賀守行家を祖とするとされるが、
          詳しい系譜や館の築城年などは不明である。
           奈倉氏の菩提寺である大徳寺の過去帳には、奈倉下野守重則が永禄十三年(1570)
          六月二十八日に「打死」したことが記されている。このころ、武田氏がしばしば奥秩父へ
          侵入していたことから、武田勢との戦いで命を落としたものとみられている。また重則に
          ついて、行家の5代子孫とも記されている。
           重則討ち死に後の奈倉氏と奈倉館については詳らかでない。


       <手記>
           奈倉館は赤平川が北向きから西向きへ直角カーブする河岸の角にあり、さらに西辺を
          八幡沢が流れる要害の地にあります。また奈倉地区は赤平川沿いの小鹿野町中心部と
          旧吉田町中心部の結節点にあたり、交通の要所でもあります。
           館跡には北辺の土塁が残り、ある程度旧状をうかがい知ることができます。また土塁と
          平行する生活道路には説明板も設置されています。土塁の東端は、後世に墓地に転用
          されているようですが、曲輪の角の物見台のような高まりとなっています。反対側の西端
          には八幡社があったとされ、中央の虎口脇には摩利支天社の祠があります。
           さて、奈倉氏の祖とされる行家について、加賀守という名乗りが秩父平氏一族の勢力
          拡大期である平安末〜鎌倉時代初に存在したとは思えません。戦国末期の当主重則の
          5代祖先ということから鑑みても、早くとも南北朝時代ごろの人物と推察されます。すると、
          行家以前にも奈倉氏や奈倉館があったのかという点が気になるところで、ひいては行家
          の出自にも判然としないところがあるように思われます。

           
 奈倉館跡標柱。
館跡のようす。 
 土塁の東端。
土塁背後。 
川底まで急峻な崖となっています。 
 摩利支天社(右)から八幡社(左)にかけての土塁。
摩利支天社脇の虎口跡。 
 説明板。


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