名胡桃城(なぐるみ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 沼田氏か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀、虎口 | |
交通 : 関越自動車道月夜野ICより車で5分 | |
<沿革> 沼田地方を治めていた沼田景久の子景冬が、明応元年(1492)に名胡桃に配され、景冬は 名胡桃氏を称した。このときに城が築かれたとの伝承も残るが確証はなく、築かれたとしても 館程度のものであったと推測される。本家の沼田氏は、永禄年間(1558〜70)の初期ごろに 北条綱成の次男康元を養子に迎え入れて北条氏に属していたが、同三年(1560)に越後の 長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に進出するとこれに従った。名胡桃氏も沼田氏と動向をとも にしていたと思われる。 永禄九年(1566)の謙信の書状には、名胡桃の備えを強化するよう指示する内容があり、 名胡桃は越後から関東へ入る三国街道沿いに位置することから、この頃までには城としての 体裁を整えていた可能性は高いと考えられている。 天正六年(1578)に謙信が病死すると御館の乱が起こり、その間に沼田領は再び北条氏の 影響下に入ったが、同時に新たに敵対関係となった武田勝頼との係争の地となった。翌七年 (1579)、北条氏の沼田城と対峙するために、勝頼の意を受けた真田昌幸が名胡桃城を改築 もしくは築城した。これが、名胡桃城が史料に明確に登場する最初のものである。同年、北条 勢は名胡桃城を2度にわたって攻めるが撃退された。翌八年(1580)には、昌幸によって逆に 沼田城が落とされた。 天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、真田氏は独立勢力化し、沼田領を巡って独自に 北条氏と争った。名胡桃城は、沼田城と真田本領や後に同盟を結ぶ越後の上杉氏との中継 地点であり、天正十四年から十六年(1586〜88)にかけて、三の丸を増設するなどの改修が 加えられた。 天正十七年(1589)、惣無事令を発していた豊臣秀吉は、係争が続く沼田領に裁定を下し、 北条氏の上洛の条件として沼田城はじめ利根川以東を北条氏、名胡桃城を含む利根川以西 を真田氏の領地とした。こうして、元々は沼田城に対峙するための城、あるいは中継地として の性格の強かった名胡桃城は、北条氏領に突き出た真田氏の橋頭堡として、一躍クローズ アップされるようになった。 同年十一月、北条家臣で沼田城代の猪俣邦憲が、突如名胡桃城を急襲した。名胡桃城代 鈴木重則は、あらかじめ北条氏に篭絡されていた家臣に城をおびき出され、名胡桃城はその 隙に北条勢によって奪われた。重則は、恥じて自害した。この事件によって、北条氏と秀吉の 対決は不可避となり、小田原の役へとつながっていった。すなわち、秀吉の天下統一事業の 総仕上げとなった小田原の役の契機をつくった城として、全国に知られることになった。 しかし、北から北条領を攻めることになった上杉・前田勢は、三国峠ではなく碓氷峠を越えて 侵攻したため、名胡桃城が再び戦火の舞台となることはなかった。北条氏の降伏により、完全 にその役目を終えた名胡桃城は、廃城となった。 <手記> 名胡桃城は、利根川とその支流の赤谷川が形成する河岸段丘の突端を利用して築かれてい ます。また、南側も湯船沢が流れる深い谷となっており、三方を崖に囲まれています。 現在、本城域と外郭部の境目をバイパスが走っていますが、本城域に関しては、非常に良好な 状態で遺構が残っています。 深く掘り込まれた空堀や、喰い違いの虎口など、この城が歴史上の転換点であるという史上 の重要性だけでなく、遺構としての価値も高い第一級の城跡であるといえます。 発掘調査により、少なくとも武田氏時代、真田氏時代、北条氏時代の3度の改修を経ている ことが分かっています。現在目にしている遺構は、猪俣邦憲が奪取した後の北条氏改修による ものです。これらの調査の結果は、現地の案内板やパンフレットにもきちんと記されており、城 の変遷をその場で考えながら歩くことが出来ます。 難点は車で訪れるよりほかに手段がないことですが、逆に車さえあれば、ICから一本道で、 居館跡と目されている般若曲輪が広大な駐車スペースなっていることから便利であるともいえ ます。 |
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本丸の石碑。 | |
二の丸から本丸を望む。 | |
ささ郭を望む。 | |
丸馬出しから三の丸喰い違い虎口を望む。 | |
三の丸から二の丸を望む。 | |
二の丸の空堀。 |