沼田城(ぬまた)
 別称  : 倉内城、蔵内城、鞍打城、霞城
 分類  : 平山城
 築城者: 沼田顕泰
 遺構  : 曲輪跡、石垣、土塁、堀跡
 交通  : JR上越線沼田駅徒歩10分


       <沿革>
           沼田城は、沼田氏12代万鬼斎顕泰によって、天文元年(1532)ごろに築かれた。それまで
          居城としていた幕岩城で不幸が重なったことから、顕泰が巫女に諮ったところ、沼田城の方角
          へ移ることを勧められたことによる移転ともいわれる。当初は倉内城(または蔵内城、鞍打城)
          と呼ばれた。
           顕泰は、後に家督を嫡男朝憲に譲って天神城に隠棲した。『加沢記』によれば、永禄十二年
          (1569)に寵愛していた後妻の子景義に家督を与えようと、後妻の兄(もしくは父)である金子
          泰清と謀って朝憲を殺害した。この事件は一族や家臣、近隣領主の反発を招き、顕泰・景義
          父子は沼田を追われ、会津の蘆名氏を頼って落ち延びたと(沼田氏と蘆名氏と同じ三浦氏を
          称していた縁を頼ったとも)。
           しかし、諸史料から沼田家中の内紛は永禄年間(1558〜70)初期のことと考えられるように
          なっており、実際には上杉氏と北条氏が台頭するなかで、前者を支持した顕泰と、後者を支持
          した朝憲の対立が背景にあったものと推測されている。顕泰は、朝憲とその妻の実家である
          厩橋長野氏によって沼田を逐われ、越後に逃亡した。沼田城には北条綱成の次男孫二郎が
          入り、孫二郎は沼田康元と称して沼田氏を継いだ。
           永禄四年(1561)に長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に進出すると、顕泰は康元を逐って
          沼田を回復した。しかし、沼田城には城代が置かれ、顕泰はその後の消息は不明である。
          『加沢記』によれば、城代には本庄秀綱が任じられた。同十二年(1569)に上杉氏と北条氏
          が同盟を結び、翌年北条氏康の七男三郎(後の上杉景虎)が人質として差し出された際には、
          沼田城で謙信と三郎の対面が行われたとされる。天正六年(1578)の御館の乱で、景虎側に
          属した秀綱は敗れて逃亡し、沼田は北条氏の支配下に収まった。沼田城には北条氏邦配下
          の藤田信吉と猪俣邦憲が入った。
           天正八年(1580)(もしくは九年)、旧領回復を図った沼田景義は、由良国繁の援助を得て
          沼田城奪回を計画した。しかし、朝憲殺害事件で景義を擁立した金子泰清は、このとき同じく
          沼田地方を窺っていた真田昌幸に篭絡されており、景義は泰清に誘殺された。泰清と城将
          藤田信吉は昌幸に降り、沼田城は真田領として武田氏の勢力に組み込まれた。
           天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、沼田城には織田氏の武将滝川益氏が入るが、
          同年の本能寺の変の後、真田氏が城を取り返した。城代矢沢頼綱は、北条氏の攻勢を6年
          にわたって耐えた。
           天正十七年(1589)、豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏の、利根川を挟んで西側の
          名胡桃城は真田氏の城とされた。再度沼田城代となった猪俣邦憲は、同年名胡桃城を用意
          周到に急襲して奪取した。これが秀吉の惣無事令違反と咎められ、小田原の役へと発展した。
           北条氏滅亡後、沼田領は再々度真田氏に与えられ、真田信幸が城主となった。慶長二年
          (1597)、信幸は城を整備し、このときに縄張りがほぼ完成されたものと考えられている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍についた信之(信幸から改名)は、改易された父
          昌幸の上田領を加増された。大坂の陣後の元和二年(1616)に信之は上田城に移り、沼田
          城と沼田領3万石は信之の長男信吉に与えられた。信吉とその子熊之助が相次いで早世
          すると、沼田領は信之の次男信政が継いだ。
           信政は、信之に家督を譲られて松代藩2代藩主となるが、そのわずか2年後に父に先立ち
          死去した。3代藩主には、信之によって信政の子幸道(信房)が指名されたが、信吉の次男
          信利(信澄)がこれを不服とて幕府に訴えた。この家督騒動は幕府によって裁定され、幸道
          を正式な松代藩主とし、信利を沼田藩主として独立させることで決着した。
           しかし不満の収まらない信利は、この後松代の本家に異常なほどの対抗意識を燃やして
          いった。それまでの表高3万石に対し、松代10万石を上回る14万石を強引にはじき出したり、
          江戸城を除いては関東に唯一という五層の大天守を沼田城に建造したり、江戸藩邸を松代
          藩の屋敷より豪奢に改築したりと、本家への対抗心という以外にない無謀な治政を行った。
           結果、信利は領内の一揆を招き、また幕府発注の工事の遅滞もあり、治政不行届きとして
          改易された。廃藩後城は破却され、沼田領は天領とされた。
           元禄十六年(1703)、本多正永が4万石で沼田に入り、再び沼田藩が立てられた。しかし
          沼田城が再興されることはなく、藩庁が旧三の丸に建てられた程度であった。その後、黒田
          氏を経て土岐頼稔が寛保二年(1742年)に3万5千石で入封し、明治維新まで12代を数えた。
           維新後、城は旧沼田藩士の家の出で実業家の久米民之助が私財を投じ、沼田公園として
          整備して市に寄贈された。


       <手記>
           沼田城は、利根川とその支流に三方を削られた河岸段丘の突端に築かれています。この
          沼田丘陵は日本有数ともいえる河岸段丘で、高速道路で沼田へ向かうと、目もくらむような
          谷を渡って崖の中へ突入するようにさえ感じられる深さを誇っています。沼田城も、段丘上の
          市街地からは地続きですが、川沿いの沼田駅からは、断崖を登らなければたどり着くことは
          できません。
           真田氏改易時に堀まで埋めるほど破却され、また久米民之助によって公園化されたため、
          遺構はあまり残っていません。本丸御門や天守跡などが石碑や図で示されてはいるものの、
          あくまで花と芝に囲まれた公園なので、往時を偲ぶには少々足らないように思います。本丸
          の北西にある西櫓台の石垣が唯一近世城郭の面影を残しています。
           ただ、注意深く歩いてみれば、堀跡や空堀跡、土塁跡などと思しき痕跡を見つけることは
          できます。また公園として見ればよく整備されていて、紅葉や桜の時期には大いに賑わうこと
          だろうと思いました。


           
 本丸西櫓台石垣。
天守跡に建つ利根英霊殿。 
 大手の堀跡と石垣。


BACK