中越城(なかごし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 中越氏
 遺構  : 堀跡・土塁跡か
 交通  : JR中央本線宮田駅徒歩15分


       <沿革>
           土豪中越氏の居城とされる。中越氏の出自は不明だが、『守矢文書』には嘉暦四年
          (1329)に「宮田中越郷地頭」が、鎌倉幕府から諏訪上社五月会の頭役を命じられた
          とする記事がみられる。この中越郷地頭が中越氏かは定かでないが、鎌倉時代中期
          にはすでに、地頭の館が営まれていたものと推測される。
           『大塔軍記』によれば、応永七年(1400)の大塔合戦の際、中越備中守が信濃守護
          小笠原長秀に与して戦い、敗れたとある。その後の中越氏の動向については詳らか
          でない。


       <手記>
           圓浄寺の北西に、台地から大沢川沿いへ下りる道があり、その西側が城域とされて
          います。一帯は畑と新しい家屋が入り混じる住宅地で、歴史的な雰囲気はあまり感じ
          られません。とはいえ、現在の宮田村は明治八年に宮田村と中越村が合併して誕生
          したとのことなので、中越城周辺は地域では中心的なエリアの1つだったものと推察
          されます。
           大沢川河岸を利用した崖端の館城とみられますが、どのような城だったか推し量る
          のはなかなか困難です。河岸の斜面が切岸なのか、住宅地整備に伴う造成なのかも
          よくわかりません。
           台地縁を西に歩いていると、1か所だけ堀のように切れ込んでいて、城館の遺構の
          ように見える場所があります。ただ、ここは東端から120mほど離れているので、単郭
          でここまで城域というのは考えにくいでしょう。もし遺構であれば、中越城は複数の
          曲輪をもっていたことになるものと思われます。

           
 北方から中越城跡を望む。
 森の左端が城域の東端。
 右端の森の切れ目が堀状地形。
台地縁のようす。 
 堀状地形のようす。
 土塁および堀跡か。


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