城山(しろやま)
 別称  : 道灌砦
 分類  : 平城
 築城者: 不詳
 遺構  : なし
 交通  : JR中央本線他中野駅徒歩10分


       <沿革>
           現在の中野1丁目周辺は古くから城山と呼ばれ、昭和の初めまで三方に土塁が残っていたと
          いう。城館が営まれていたことは確実と思われるが、城主についてははっきりしない。『日本城郭
          大系』では、僧堯恵の著した『北国紀行』の文明十九年(1487)六月二十八日の項に、「中野と
          いふ所に平重俊といへるが催しによりて」とあることから、文明年間(1469〜87)ごろに重俊に
          よって築かれたものと推測している。ただし、平重俊という人物については明らかでない。
           現地の説明板によれば、城地は江戸時代には中野村名主堀江氏の屋敷であった。堀江氏は、
          後北条氏時代に中野五郷の小代官を務めていたとされる。
           また、平忠常の城砦跡である、あるいは太田道灌が豊島氏と戦った際に陣地であったなどと
          いう説もある。ただ、少なくとも平安時代中期の武将である忠常の城砦跡という説については、
          にわかに肯じがたい。

       <手記>
           城山は、中野駅と東中野駅の中間付近にあります。現在でも周辺は城山町と呼ばれ、城山
          公園や城山商店街などがあります。城跡は谷戸運動場となっていて、その南側に説明板が
          立っています。その他に遺構などはありません。
           城山とはいうものの、周囲は完全に谷戸です。戦前の地図にはたしかに三方を土塁に囲まれ
          た区画がはっきり描かれています。南に桃園川の谷戸を望む緩やかな斜面上の城館で、在地
          領主の居館といった感じです。四方の眺望は優れておらず、道灌が陣として使用したという説も
          ちょっと信じられません。
           運動場裏のマンション敷地に土塁があったそうですが、こちらも現在では失われています。
          マンションとその背後の住宅との間には2mほどの段差があるのですが、あるいは堀や土塁の
          名残かもしれません。
           

           
 谷戸運動場前の城山説明板。
城山のようす。 
奥のマンションのあたりに、昔は土塁がありました。 
 堀跡か。マンション裏の段差。


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