山田城(やまだ)
 別称  : 古城、山田古城
 分類  : 山城
 築城者: 山田氏
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : JR吾妻線中之条駅よりバス
       「山田」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           現地説明板によれば、山田源太左衛門が城主と伝えられている。『関東幕注文』
          には、山田氏は岩櫃斎藤氏と同紋の一族と記されている。
           永禄六年(1563)、本家の斎藤憲広が武田家臣の真田幸隆に岩櫃城を攻め落と
          されると、憲広は、嵩山城に残した末子城虎丸のことを源太左衛門に託して越後へ
          落ち延びたとされる(『加沢記』)。
           その後の山田城および山田氏の動向については定かでない。


       <手記>
           山田城は、山田集落の吾妻神社脇の山道をしばらく上がったところにあります。
          山道からの登城口には説明板と倒れた標柱があり、ここからフラットに城内に入る
          ことができます。まず最初に現れる土塁(切岸)を上がりきると、そこがもう主郭で、
          ここにも錆び果てた標柱が立っています。
           山田城は、この主郭から北に伸びる部分と、本丸脇の堀切を隔てた東側の部分、
          そしてそこから水の手曲輪と呼ばれる小さな沢谷戸を隔てた東端の部分の、大きく
          3つの曲輪群から成っています。とはいえ、『日本城郭大系』の群馬編の著者がこと
          あるごとに繰り返す「別城一郭」などというつもりはなく、各曲輪群も大した規模では
          ありません。堀も、主郭の東脇以外に明瞭なものはなく、曲輪の削平も甘いところ
          がほとんどです。
           現地で水の手曲輪と標柱の立っているところは、2つの曲輪群の間の小谷戸に
          なっている窪地で、広い空間ですが曲輪形成されていたかは少々疑問です。ここ
          には今も大きな池の跡があり、おそらく沢を堰き止めて溜池としていたと推測され
          ます。さらに古い縄張り図によれば、麓の山田集落からこの沢谷戸を越えて城内
          を貫通する古道があったそうで、今も水の手曲輪の奥に堀底道が残っています。
           この古道はおそらく、山田から高野平城を経由して岩櫃城へ、あるいは須郷沢
          上流の内野を経て平沢へと至る、四万川流域と岩櫃周辺を結ぶ重要なルートで
          あったものと推測されます。そして山田城は、この古道と水源を守るために築かれ
          たものと考えられます。山田集落から見ると、山田城は少々離れた高所にあります
          が、今も城跡入口の目の前に民家があることから、かつては城の周辺の緩やかな
          谷戸でも営農されていたのではないかと拝察されます。

           
 城址入口の説明板と標柱。
主郭のようす。 
 主郭背後の土塁。
主郭東側の堀切。 
 堀切東側の曲輪。
水の手曲輪。 
 水の手曲輪内部のようす。
水の手曲輪東側の土塁。 
 水の手曲輪東側の曲輪内のようす。
水の手曲輪東側の曲輪内の土塁。 
 同上。
水の手曲輪奥の古道跡。 


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