岩櫃城(いわびつ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 斎藤憲行
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀など
 交通  : JR吾妻線群馬原町駅徒歩50分


       <沿革>
           鎌倉時代の豪族吾妻氏の館があったともいわれるが、真偽は不明である。吾妻氏は、
          後に吾妻荘司下河辺行重の系統に取って代わられた。行重の孫の行盛は、貞和五/
          正平四年(1349)に碓氷峠で里見義時と戦って討ち死にした。行盛の子憲行は、安中へ
          逃れて斎藤梢基の養子となった。延文二/正平十二年(1357)、憲行は山内上杉憲顕
          に従って仇敵義時を討ち、吾妻地方を回復した。応永十二年(1405)、憲行は岩櫃城を
          築いて居城としたとされる。ところが『加沢記』等では、斎藤越前守基国の子で同姓同名
          の斎藤太郎憲行が越前国から吾妻へ入部し、岩櫃斎藤氏の祖となったとされる。2人の
          憲行の関係についてはいまだ謎である。斎藤氏の岩櫃城築城についても、年代や位置、
          規模については詳らかでない。また、永禄三年(1560)の『関東幕注文』では、斎藤氏を
          指して岩下衆と記されていることから、斎藤氏の岩櫃城は岩下城を指すものとする説も
          ある。一般的には、斎藤氏岩櫃城をもって中世岩櫃城のはじまりとされる。
           岩櫃城は憲行の長男憲実が継いだが、憲行の五男で稲荷城主の大野次郎憲基が
          勢力を増し、次第に本家を支配下に置くようになった。憲基の孫の義衡は、とうとう本家
          に取って代わり、岩櫃城に拠点を移した。大永年間(1521〜28)、義衡の孫の憲直は、
          憲行の四男山田四郎基政の孫で岩下城主の斎藤憲次に植栗城主植栗元吉の討伐を
          命じた。しかし、元吉と懇意であった(縁戚であったとも)憲次は、植栗城へ向かうと見せ
          かけて岩櫃城を急襲し、大野氏を滅ぼした。
           憲次の子憲広は積極的な勢力拡大に乗り出し、周辺諸豪族と争った。鎌原城主鎌原
          幸重はこれに対抗すべく、永禄三年(1560)に武田信玄の傘下に入った。同五年(1562)
          八月、信玄は真田幸隆を大将とする3千の兵を差し向けた。武田軍は、大戸と暮坂峠の
          2方面から攻め入り、周辺諸城を落としつつ岩櫃城へと迫った。憲広は一旦は武田氏に
          降伏したが、翌六年(1563)九月には、白井長尾氏の援軍を得て武田方の長野原城
          急襲し、これを攻め落とした(長野原合戦)。
           信玄は再び幸隆に斎藤氏攻略を命じ、真田勢は岩櫃城に迫った。斎藤勢1700の籠る
          岩櫃城を力攻めで落とすのは容易ではないと判断した幸隆は、偽りの和議を持ちかけ、
          憲広もこれに応じた。その間に幸隆は城内への工作を進め、憲広の甥則実と、重臣で
          真田氏とは同族の海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟の内応を取り付けた。同年十月、
          幸隆は岩櫃城攻略を再開し、則実および海野兄弟の内応に遭った岩櫃城は混乱のうち
          に落城した。憲広と嫡男憲宗は越後の上杉謙信を頼って落ち延び、憲広の末子城虎丸
          は嵩山城にとどまって、岩櫃城奪還のときを待った。幸隆はそのまま吾妻の統治を委ね
          られ、鎌原・湯本・三枝の3氏が岩櫃城代に任じられた。
           永禄八年(1565)、謙信の援助を受けた憲宗は、岩櫃城を奪回すべく弟の籠る嵩山城
          に入った。これに対し幸隆は、再び偽りの和議を憲宗に申し出て、双方人質を交換した。
          ほどなく上杉氏の加勢が帰るのを確認すると、幸隆は斎藤氏の重臣池田佐渡守重安を
          調略し、いよいよ嵩山城攻略にかかった。同年十一月、城は落ちて斎藤兄弟は自害した。
           斎藤氏が滅亡し、吾妻が武田氏支配のもとに落ち着くと、真田氏は吾妻郡代に任じられ、
          海野兄弟を岩櫃城代とした。元亀二年(1571)と翌三年の二度、信玄が上州への出兵の
          際に岩櫃城に入ったといわれる。天正八年(1580)、幸隆の子昌幸は、沼田城を奪って
          居城とした。このときは輝幸を沼田城代とし、幸光を岩櫃城に留め置いたとされる。しかし
          翌九年(1581)、海野兄弟は逆心ありとして昌幸の追討を受け、輝幸は自害し、幸光は
          岩櫃城内で生害された。岩櫃城代は矢沢頼綱が引き継いだ。同十年(1582)、織田信長
          の武田氏攻めによって主君武田勝頼が窮地に陥ると、昌幸は勝頼を岩櫃に迎えんとして、
          山麓に居館の造営工事を始めた。だが、勝頼は頼った先の小山田信茂の裏切りにより
          自害し、武田氏は滅んだ。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、真田家は昌幸と嫡男信幸とで東西に分か
          れた。岩櫃城は昌幸方であったため、白井城や沼田城の徳川軍と睨み合うことになった
          が、実際に戦闘が行われることはなかった。戦後、岩櫃城は信幸に与えられた。信幸は
          一国一城令に従い、岩櫃城を破却した。廃城時期については、慶長十八年(1613)、同
          十九年(1614)、元和二年(1616)と諸説ある。


       <手記>
           岩櫃城は、その名の通りの険しい山容を誇る岩櫃山東側の尾根筋に築かれています。
          その堅城ぶり
          から、駿河久能城・甲斐岩殿城と合わせて武田三名城と呼ばれることもあります。岩櫃城
          は非常に広大な城で、上の地図中に示したのはほんの主城域部分のみです。
           城跡背後の岩櫃山が手ごろなハイキングコースとして好まれていることから、駐車場や
          登城路は比較的しっかりと整備されています。山に入って間もなく登山道から左にそれて
          しばらく進むと、空堀(竪堀)を抜けた後に中城にたどり着きます。中城は城内で最も面積
          の広い曲輪と思われます。曲輪というよりはなだらかな斜面の広場といった感じで、削平
          がやや不完全に見えるのが特徴です。
           中城の竪堀の1つが階段付きの歩道となっていて、そこを上りきって進むと、二の丸に
          着きます。二の丸から巨大な空堀を越えると、本丸に到達します。本丸周辺は、周辺の
          樹木が整理され、碑なども立てられ、史跡として整備されています。とくに南側の眺望が
          開け、巨大な竪堀のようすもはっきりとうかがうことができます。ただ逆に、ここまで来ない
          と城の知名度に比して十分に整備されているとはいい難い感じです。別の訪城客は、藪が
          半分しか刈られていない中城を見て、「これで終わりか」とつぶやいて下りて行ってしまい
          ました。
           主城域から駐車場を挟んで東側へ上ると、出丸とされる天狗丸跡があります。中心には
          岩櫃神社があり、その麓には長大な平坦区域が広がっています。ここには平川戸という
          城下集落があり、その中を旧吾妻街道が貫通していたと考えられています。現在では、
          当時の区画を利用したとも考えられる段々の畑が続いています。
           このように、岩櫃城は城内に街道や家臣団屋敷、城下集落を城内に取り込み、放射状
          竪堀を張りめぐらすなど、武田氏および真田氏の築城思想が色濃く反映されています。
          そのため、岩櫃城のはじまりについては諸説紛々で、前述のとおり斎藤氏時代の岩櫃城
          は岩下城を指すものとするものまであります。私は、岩下城を斎藤氏岩櫃城と同一とする
          のは問題があると思われます。憲行末子幸連や、大野氏を滅ぼした憲次が岩下城主で
          あったとする記述と矛盾することになるからです。ただし、真田氏の岩櫃城主城域がその
          まま斎藤氏以前の岩櫃城であったかというと、これも疑問に思われます。岩櫃山の天険
          を背にしているとはいえ、峰の中腹に城を築くという発想は、斎藤氏の時代には一般的
          ではなかったと思われるからです。個人的には、峰の頂部である天狗丸や峰の先端の
          平川戸東木戸周辺か、あるいは出城である柳沢城の方が、中世の城館として一般的な
          選地ではないかと考えています。
           最後に注意ですが、夏場の訪城は控えた方が宜しいかと思います。以前岩櫃城を夏に
          訪れたことがあり、その際クマに遭遇しました。といっても、畑をうろつく子熊を車から見か
          けただけですが。周辺の畑には高圧電線が張り巡らされていて、珍しいというわけでは
          ないようです。


           
 天狗丸から岩櫃城主城域を望む。
 中央から左手の峰が岩櫃城主城域。
 右手奥が岩櫃山頂上。
本丸のようす。 
 本丸南側の竪堀。
本丸と二の丸の間の空堀。 
 同上。
中城のようす。 
 中城の放射状竪堀の1つ。
 遊歩道になっています。
 中城北東端の堀。 
 天狗丸のようす。 
 右手麓の道路付近を旧吾妻海道が
 走っていたと推測されています。
登城口付近から天狗丸を望む。


BACK