中山田土居(なかやまだ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 中山田泰吉ないし香宗我部親秀か
 遺構  : 土塁跡か
 交通  : 土佐くろしお鉄道ごめんなはり線のいち駅よりバス
       「中ノ村通」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           香宗我部城の香宗我部親秀は、大永六年(1526)の安芸氏との戦いで嫡子秀義を失い、弟の
          秀通を後継者に指名した。親秀自身は、兎田・新宮・中山田などを隠居料として、香宗我部城の
          北屋敷に引退した。
           しかし、西から長宗我部氏が勢力を伸ばすと、親秀は長宗我部国親の三男親泰を養子に迎え
          入れ、東の安芸氏に対抗しようと考えた。秀通は、自身に男子がいたことから親泰の入嗣に反対
          したが、親秀によって謀殺された。親泰は永禄元年(1558)に香宗我部氏を継ぎ、秀通の子泰吉
          は中山田氏を称した。中山田土居は、引退した親秀もしくは中山田泰吉によって築かれたものと
          考えられる。
           中山田氏は、以後香宗我部氏の家老として仕えた。関ヶ原の戦いによって長宗我部氏が改易
          になると、親泰の次男香宗我部貞親は土佐を出て他国に仕官したといわれる。中山田氏は土佐
          に留まったが、中山田土居は間もなく廃されたものと思われる。


       <手記>
           「中山田土居遺跡」として遺跡マップにみられるほかは、文献等にまったく登場しない史跡です。
          中山田氏の存在や、親秀が隠居料として得た兎田・新宮・中山田の3地の中心にあることから、
          この地に館が営まれていたことは容易に推測されます。
           現地には、高知県によく見られる土居の土塁跡を利用した八幡社と思われるお社があります。
          このほかには、城跡を思わせるものは何もありません。この八幡社周辺については、今一度調査
          をして、土居の存在をしっかりと確かめていただきたいと思います。

           
 土居跡を東方から望む。
土塁跡と思しきお社。 


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