七尾城(ななお) | |
別称 : 松尾城、末尾城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 畠山満慶か | |
遺構 : 石塁、土塁、堀、曲輪、水の手 | |
交通 : 能越自動車道七尾城山ICから車で10分 | |
<沿革> 能登畠山氏の居城として知られている。能登畠山氏は室町時代初期の管領畠山 基国の子満慶にはじまる。応永十三年(1406)に基国が死去した際、嫡男の満家は 将軍足利義満の勘気を蒙って蟄居していたため、その弟の満慶が家督を継承した。 しかし、同十五年(1408)に義満が没すると、満慶は満家に家督を返上した。これに 感銘を受けた満家は、領国のうち能登国を満慶に与えた。七尾城は満慶が築いた ともいわれるが、確証はない。仮に築かれていたとしても、平時の館はそれまでの 守護所と変わらず海沿いの府中(七尾市府中町)に置かれていたとみられている。 明応六年(1497)、満慶応の曽孫で3代当主の義統が死去すると、その嫡子義忠 が跡を継いだ。しかし、守護代遊佐統秀らは義忠の弟慶致を擁立し、同九年(1500) に謀叛を起こして義忠を追放した。ところが、永正三年(1506)に加賀一向一揆が 周辺諸国へ進出を図ると、内紛を憂う家中の声が高まり、義忠が当主に復帰した。 七尾城は、実際には能登国が緊張状態に陥ったこの義忠・慶致期に築かれたか、 それまで砦程度であったものが要塞化されていったものと推測される。 慶致の子で義忠の養子となって跡を継いだ義総の代に、能登畠山氏は最盛期を 迎えた。国内が安定したうえに義総自身が教養人であったことから、七尾城下には 多くの文化人が集まり、「千門万戸」「小京都」と呼ばれるほどの賑わいを見せたと いわれる。 しかし、天文十四年(1545)に義総が世を去り、その子義続の代になると、再び 畠山家中は混乱の様相を呈するようになった。俗に畠山七人衆と呼ばれる重臣ら の間で権力争いが勃発し、天文十九年(1550)には七人衆の遊佐続光と温井総貞 の抗争に際して義続が七尾城に籠城し、城の一部が被害を受けた。 翌天文二十年(1551)、義続は嫡男義綱に家督を譲り、弘治元年(1555)に義綱 は総貞を誅殺した。これにより続光が権力の座に昇ったが、総貞派の国人が兵を 挙げ、能登は「弘治の内乱」と呼ばれる内戦状態に陥った。こうした混乱を受けて、 義続・義綱父子のころに七尾城はさらに堅固に拡張された。 永禄九年(1566)、続光および同じ七人衆の長続連が中心となって、義続・義綱 父子を追放した。重臣らは、義綱の子義慶を傀儡の幼君として擁立した。義慶は 天正二年(1574)に急死したが、続光らによる暗殺ともいわれる。家督は弟の義隆 が継いだが、義隆も同四年(1576)に急死し、やはり毒殺説が呈されている。跡を 義隆の遺児春王丸が継いだが、このころには西からは織田信長、東からは上杉 謙信の圧迫を受けるようになる。織田派と上杉派で家中が分裂するなか、同年中 に上杉軍が先に能登へと侵攻した。 これに対し、畠山家では織田派の続連主導のもとで籠城策が採られた。謙信は 七尾城を囲んだものの、さすがの堅城ぶりに攻めあぐねた。そのまま能登で越年 したものの、翌年三月に謙信は抑えの兵を残し帰国した(第一次七尾城の戦い)。 続連らは上杉勢の包囲拠点に攻勢をかけたが、同年閏七月には再び謙信が 兵を整えて出陣し、畠山勢も七尾へ籠城した。このとき、続連は領民も多数城内に 収容したため、籠城方は数の上では1万5千人にのぼったとされる。これが災いし、 衛生状況の著しく悪化した城内では疫病が発生した。病死する者が相次ぎ、つい には春王丸も病に罹って命を落とした。この期に及んで、もともと上杉派であった 続光や温井景隆・三宅長盛兄弟らは、謙信に内通して上杉軍を城内に引き入れ、 さらには続連ら長一族を虐殺した。この日が中秋の名月の九月十三日であった ことから、謙信は『九月十三夜陣中作』と呼ばれる漢詩を詠じたといわれる。ただ、 実際の落城日は十三日より後だったとも、十三日は続光らが内通を打診した日 ともいわれ、漢詩の真偽も含め定かでない。続連は、三男連龍(当時は僧籍)を 織田信長のもとへ派遣して援軍を仰いだが、その到着を前にしての落城であった (第二次七尾城の戦い)。 戦後、上杉家臣鰺坂長実が七尾城代に任じられた。しかし、謙信が天正六年 (1578)に没して御館の乱が起こると、続光と景隆は長実を七尾城から追放した。 両者は信長に降伏したが、景隆は逐われ、続光は処刑ないし連龍に捕らえられ、 殺害された。 その後、信長側近の菅屋長頼が能登国内の政務処理に当たるために七尾城 に入り、天正九年(1581)には前田利家に能登一国が与えられた。利家は府中 近くに小丸山城を築いて新たな居城とし、七尾城には利家の次男利政や兄安勝 が城代として入った。廃城時期は詳らかでないが、小丸山城が完成してから間も ないころと推測される。 <手記> 七尾城とは、松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾の7つの尾根にまたがる という意味に由来するとされています。ただし、日本語の七にはそもそも「たくさん」 の意があるので、実際には厳密に7つという訳ではなく、単に多くの尾根に城域が 広がっているさまを指しているのだと思われます。 それだけ七尾城の遺構は広範囲に及んでいますが、主城域だけなら車で簡単 に訪ねることができます。城山の麓に能越自動車道七尾城山ICがあり、そこから 林道を上がれば、七尾城の見どころの1つ五段石垣のすぐ脇まで登ることができ、 駐車場もしっかり整備されています。 五段石垣の脇を登った先は本丸下の遊佐屋敷と桜馬場で、この両者の間には 仕切りの石垣があります。本丸の前面もまた、立派な三段の石垣で固められて います。これらの石垣が段になっているのは、高石垣を積む技術がなかったから と推察されますが、他方で隅石がきちんと組まれていることから、中央の積み方 を一応は踏襲しています。したがって、これらの石垣は畠山時代や、まして石垣 普請の余裕などない上杉氏の時代ではなく、織田氏ないし前田氏によって構築 されたものと考えられます。 本丸にははっきりとした櫓台があり、実際に高層建築が乗っていたかどうかは 別としても、本丸からは山麓の平野部と七尾湾が見事に一望できます。 遊佐屋敷に戻って桜馬場から尾根の先端側へ進むと、温井屋敷があり、その 先には小ピークの二の丸があります。二の丸の先は大きな堀切を隔てて、また 別のピークの三の丸となります。三の丸を下りると安寧寺跡と呼ばれる腰曲輪 に出ます。今度はそこから山道をスライドし、途中に涸れたことのないと伝わる 「とよの水」という水源を通って、再び五段石垣下の調度丸へと戻ってきます。 主城域だけを巡るなら、これでだいたい1時間半〜2時間といったところです。 さて、七尾城については、近年中世城郭史研究の泰斗である千田嘉博教授 が、戦国大名の権力構造を如実に表しているとする説を唱えています。それに よると、七尾城は堀切で隔てられた峰に重臣屋敷が散在しており、それぞれが 独立している。これこそが、畠山氏の権力が有力国人の支持と盟約の上に成り 立っていることを示しているという内容のようです。 多くの戦国大名が、領国内の有力者の盟主的存在として地位を保っていたと いう点については私も首肯しますが、七尾城がそれを体現しているという部分に ついては、結論ありきの論述に走っている感を受けます。というのも、たしかに 畠山七人衆の1人長氏の屋敷とされる曲輪は、本丸から堀切を隔てたすぐ背後 にあって独立していますが、同じ七人衆の遊佐屋敷は本丸と地続きのすぐ直下 にあり、やはり温井屋敷も二の丸のすぐ麓にあって独立しているとは言い難い 配所です。もし国内の有力者が大名と肩を並べ得る拠点を七尾に持っていたと いうのであれば、この遊佐・温井の2氏がまず当てはまらないのは説明がつき ません。千田教授は今をときめく城跡ブームの牽引者ではあらせられますが、 西股総生さんなどと違ってアカデミックな研究者ですので、学術の本分だけは 外れずにいただきたいところです。 |
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本丸の三段石垣。 | |
本丸のようすと櫓台。 | |
櫓台からの眺望。 | |
本丸虎口脇の石垣。 | |
同上。 | |
遊佐屋敷(左)と桜馬場(右)の間の仕切り石垣。 | |
五段石垣。 | |
温井屋敷跡。 | |
温井屋敷脇の石垣。 | |
温井屋敷跡から二の丸を望む。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸と三の丸の間の堀切。 | |
三の丸のようす。 | |
安寧寺跡。 | |
とよの水。 | |
とよの水近くの土留石垣。 | |
一周戻って五段石垣を下から見上げる。 |