成瀬城(なるせ)
 別称  : 成瀬城山
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 曲輪跡、空堀、井戸跡、門跡
 交通  : JR横浜線成瀬駅徒歩5分


       <沿革>
           史料には現れない城である。城山公園の南から西にかけて空堀の跡が見られ、
          公園の南西隅は大門跡と伝えられている。南西300mほどのところには「根小屋」と
          いう字名も残っていた。
           城主については、さまざまな推測があるものの判然としない。横山党の一派に、
          鎌倉時代初期に藍原氏から別れた鳴瀬氏がある。鳴瀬氏は四郎太郎某に始まり、
          長兼、兼氏と続いている。成瀬城をこの鳴瀬氏の城とする説があるが、確証はない。
           また、近くから四条彦次郎という人物の天文四年(1535)の経筒が発掘され、城主
          との関連が指摘されている。
           このほか『日本城郭大系』では、『小田原衆所領役帳』に小山田弥三郎が成瀬に
          96貫余の役高をもっていたことが記されていることから、小山田氏との関連も指摘
          している。ただし、小山田弥三郎を甲斐小山田氏の小山田信茂としていることには
          疑問の余地があろう。

       <手記>
           成瀬城は、恩田川の河岸段丘の角に築かれています。南は地続きですが、他の
          三方、とくに川岸からは結構比高差があります。
           『大系』や現地の説明板には南に空堀が残っているとあるのですが、「残っている」
          というほどには残ってはおらず、公園化や宅地化のためか浅い溝程度のものです。
          曲輪の先端付近が櫓台跡と伝わっていますが、こちらも櫓台というほどの何かが
          残っているわけではありません。恐らく井楼程度のものでしょう。また、井戸跡と呼ば
          れる地点には、ミニチュアのキャンプファイヤーのような木組みの井戸枠が復元され
          ています。
           このほかにはとくに遺構らしきものはありません。単純な構造や現存遺構のようす
          から察するに、北条氏の頃までは時代を下らない城ではないかと思われます。鎌倉
          時代に鳴瀬氏によって築かれ、せいぜい室町時代後期ごろまで使用されていたと
          考えるのが、妥当であると思われます。

           
 成瀬城跡碑と説明板。
恩田川方面から成瀬城址を望む。 
 大門(大手門)跡と呼ばれる地点から城内を望む。
 南側の空堀跡。 


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