木津城(きづ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 篠原自遁 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR鳴門線教会前駅徒歩10分 | |
<沿革> 築城の経緯は定かでない。永禄年間(1558〜72)には、三好家臣篠原自遁が城主 であったとされる。 自遁は天正十年(1582)の中富川の戦いや、続く勝瑞城の攻防戦には参加せず、 木津城に籠もって土佐の長宗我部勢を迎え撃った。翌十一年(1583)四月、長宗我部 元親の弟香宗我部親泰の攻撃を受けて自遁は木津城を開き、淡路へと落ち延びた。 天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに際して、元親は木津城に東条 関兵衛を配した。関兵衛は阿波桑野城主武田信綱の子である。木津城は秀吉の弟 秀長の率いる大軍に攻められたが、8日にわたって持ちこたえた。しかし水の手を絶た れたところで、秀吉に降っていた叔父東条紀伊守の説得を受け、関兵衛は開城して 土佐に退いた。これに立腹した元親は関兵衛に切腹を命じたが、まもなく自身も秀吉 に降伏している。 戦後、蜂須賀家政が阿波一国に封じられたが、木津城はそのまま廃城となったもの とみられる。 <手記> 木津城は、新池川沿いに細長く伸びる丘陵の先端近くのピークに築かれています。 西麓には木津城址公園があるのですが、その名に反して碑や案内など城跡そ示す ものは何もないばかりか、城跡へ登る道もありません。 後で他の城跡サイト様を見て知ったことには、東麓の切通し脇に小さな階段があり、 そこからなら比較的容易に登れるそうです。城址公園があるのだからここから行ける でしょうと安易に考えていた私は、仕方なく公園脇から山肌に取り付いて直登する ことにしました。 しんどいにはしんどいですが、季節柄下草も少なかったので登れないことはありま せんでした。公園との境は土塁線状の細尾根になっていて、これを辿れば迷うことも ないでしょう。 しばらく登ると、尾根にちょっとした堀切状の切れ込みがあり、その東には立派な 横堀が続いています。その上にははっきりした帯曲輪があり、さらに高くて急な切岸 を経て主郭に至るものと思われます。「思われます」というのは、切岸の先は流石に 藪がひどく、これ以上は無理だと断念したからです。 踏査できなかった部分は想像で補うとしても、山の規模からしてお世辞にも大きな 城とはいえません。本当にこんな城で8日も持ちこたえたのかと、ちょっと疑問に思い ました。 |
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木津城址近望。 | |
横堀。 | |
土塁線状の細尾根と途中の切れ目。 | |
帯曲輪。 | |
主郭(?)の切岸。 |