名内城(なうち)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 堀、土塁、虎口か
 交通  : JR常磐線・東武野田線柏駅よりバス
       「東台」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           『中世城館調査報告書集成』によれば、屋敷廻の小字と堀跡が残るとされるが、
          史料にはみられず詳細は不明である。


       <手記>
           名内地区は、東西の谷戸に挟まれた細長い舌状台地上の集落で、名内城はその
          台地の縁にあったとされています。『集成』に記載されている名内城跡は、上の地図
          の上の緑丸のあたりですが、宅地と深藪に覆われていて、踏査はおろか内部を目視
          することすら困難です。
           これに対し、集落内の東光院境内周辺(地図中の下の緑丸付近)には、はっきりと
          城館遺構と思われる地形が散見されます。まず、東光院正面の道路沿いには土塁
          状の段差があり、本堂裏手にも堀跡および土塁跡と思しき凹凸地形が認められます。
          境内に沿った北側の道は深い切通し道となっており、かつての堀底道であった可能
          性は高いと思われます。
           次に、東光院に南接する民家とそのまた南側の民家との間に、やはり堀底道状の
          通路があります。この通路はどちらのお宅にも属していないようだったので、ご一緒
          していた『大和之古城』のダイさんと意を決して西側に抜けたところ、崖端で虎口状
          に直角に折れ、斜面に沿って麓へと通じていました。これも断定はできませんが、城
          の遺構とみてほぼ間違いないのではないかと思います。
           総合すると、東光院境内とその南隣の民家を含めた範囲の、館形式の城館の存在
          が推定されます。おそらく名内を治める領主の居館だったものと思われますが、その
          主については定かではありません。ただ、『城跡ほっつき歩き』さまによれば、名内
          地区南部の粟島神社は、千葉家家臣伊藤左馬助守胤によって造営されたと伝わる
          ため、この伊藤氏との関連も十分考えられます。

           
 東光院境内正面の土塁状の段差地形。
東光院本堂背後の堀状および土塁状地形。 
 東光院南側民家脇の堀底道。
堀底道崖端の虎口状地形。 
 境内北側の切通し道。


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