禰津下の城(ねづしも)
 別称  : 祢津城
 分類  : 山城
 築城者: 禰津氏か
 遺構  : 曲輪、石積み、土塁、堀
 交通  : しなの鉄道田中駅よりバス
       「東田沢」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           滋野氏一族禰津氏の持ち城と考えられている。禰津氏は、滋野重道の子ないし甥に
          あたる小次郎道直にはじまるとされる。他方で、婚姻を通じて諏訪氏とも強い結びつき
          をもち、神氏を称してしばしば神平の通称を用いた。建久元年(1190)の源頼朝の上洛
          に際しては、道直の孫宗直が随行している。下の城(および上の城)がいつごろ築かれ
          たのかは不明である。
           天文十年(1541)、滋野一族本宗筋の海野氏が山内上杉氏と結んだことで、村上氏・
          武田氏・諏訪氏の侵攻を招き、海野平の戦いが発生した。禰津元直は海野氏に属し、
          同戦いで海野氏側は壊滅的な敗北を喫した。海野氏や真田氏などは、領地を失って
          上野国へと落ち延びたが、禰津氏は神氏を併称していたことから諏訪氏の取り成しに
          よって所領を安堵された。ただし、元直の子政直は、海野棟綱や真田幸隆と行動を共
          にして落去したとされる。この戦いに際して、禰津城が戦場となった可能性は低いもの
          と思われる。
           禰津父子は、天文十四年(1545)に武田晴信の家臣として出仕したとされているが、
          前述の通り海野平の戦い後の元直と政直の動向は相反しており、その経緯について
          は疑問が残る。この前後に、禰津氏の家督は政直に譲られ、また政直の妹が晴信の
          側室として嫁いだとされる(禰津御寮人)。武田氏が上州長野氏を滅ぼすと、政直は
          上野国内に知行を宛がわれ、信濃の禰津本領は弟信忠に譲ったともいわれる。
           天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して、政直は徳川氏に臣従したが、禰津氏
          「本家」とされる禰津昌綱が、反徳川の立場を明らかにして禰津城に籠った。昌綱の
          系譜上に位置については定かでないが、信忠に連なるものと推測される。禰津城は
          徳川氏に属した真田昌幸に攻められたが、翌十一年(1583)には昌幸の調略を受け、
          昌綱は真田氏の臣下となった。
           その後の禰津城については詳らかでない。


       <手記>
           上信越自動車道東部湯の丸SAの背後に聳える、甘食のような形をした山が、禰津
          下の城跡です。同じ峰を北東に700mほど登ったところに、上の城があります。城へは、
          南東麓から登ることができます。尾根先からの道と、付け根側へ回る道があり、前者
          はハイキングコースのように、後者は林業用の作業道となっています。
           作業道から登ると早々に竪堀を横切ることになり、手っ取り早く遺構を目にすること
          ができます。この竪堀は城背後の尾根の堀切から続くもので、かなり下まで延びて
          いるうえに2本横並びになっています。とても規模壮大で手間のかかった造作ですが、
          ここまでの工事量に見合うだけの効果が得られるのか、少々疑問にも感じます。
           堀切の城内側には珍しいことに溜池があり、道は尾根の西側サイドを通っています。
          先の2連竪堀とは反対側のこの道沿いには、堀切と伴わない竪堀が一定間隔で3本
          ほど並んでいます。
           下の城は大きく分けて3つの曲輪からなっていますが、ここもまた手間をかけられて
          いることには、主郭下と三の曲輪下の2ヶ所に大きな堀切が穿たれています。主郭は
          土塁でぐるり囲繞されていますが、支城とされる西向かいの矢立城にみられるような
          石積みは認められません。主郭は地元の保存会によって整備されているようで、眼下
          には海野平が遮るものなく一望できます。
           主郭の下には、山頂を囲む帯曲輪がみられますが、その他の山腹の造作について
          ははっきりしません。とくに尾根先側の防備は矢立城と同じく弱く、こちらから攻められ
          たらわりとひとたまりもないのではないかと疑問に感じます。
           尾根先側のハイキングコースのような登城路をしばらく下ると、山腹が横堀状に堀と
          土塁で固められた箇所にでます。この土塁のちょうど中間地点付近を山道が貫通して
          おり、パッと見には虎口が開いているようにみえます。ただ、もとは一直線の土塁線
          だった可能性が高いように思われ、だとすれば、ハイキングコースの整備によって貴重
          な遺構が破壊されてしまったことになります。この堀と土塁については、直上に曲輪
          がないことから、横堀というより武者隠し的なものだったのではないかと推測されます。
           禰津下の城は、縄張りにやや疑問が残るものの充分に整備された城であり、小諸
          と上田平を結ぶ、海野平の重要な拠点城であったものと思われます。

           
 東部湯の丸SAから禰津下の城を望む。
付け根側東斜面の2条竪堀。 
 主城域付け根の堀切。
土塁に囲まれ溜池状になっている箇所。 
 副郭部下の堀切。
二の郭の土塁を望む。 
 二の郭のようす。
主郭下の堀切。 
 主郭下の横堀状の帯曲輪。
主郭のようす。 
 主郭からの眺望。
主郭から下の帯曲輪を望む。 
 主郭先端下の横堀と土塁。


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