| ノイモーントフォルト城 (Burg Neu-Montfort) |
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| 別称 : なし | |
| 分類 : 平山城(Höhenburg) | |
| 築城者: モーントフォルト伯 | |
| 交通 : ゲツィス駅から徒歩25分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 史料上は1319年に初めて言及があり、1311年から同年の間に、モーントフォルト伯によって 築かれたとみられている。13世紀には前身となる城砦があったともいわれるが、確証はない。 当時、モーントフォルト伯家は領地を接するトゥム=ノイブルク伯家と対立しており、ノイモーント フォルト城は後者の領内にあった。 1362年にはフーゴー・トゥムの抵当に入れられたが、同年にモーントフォルト=フェルトキルヒ 伯ルドルフ3世が武力でこれを奪った。1390年にルドルフ4世が死去すると、城はチロル伯を 兼ねるオーストリア公ハプスブルク家の所有となった。 1403年、アッペンツェル市がザンクト・ガレン修道院からの独立を唱えてアッペンツェル戦争 が勃発すると、ハプスブルク家は修道院側を支援したため、アッペンツェル市らが中心となって 結成された「越湖同盟(Bund ob dem See)」軍によって、ノイモーントフォルト城は1406年に 攻め落とされた。しかし、1408年にブレゲンツの戦いで同盟軍が大敗すると、同戦争において は珍しく破壊を免れたまま、城はハプスブルク家の手に戻った。 1415年、オーストリア公フリードリヒ4世(無一文公)がローマ王ジギスムントから帝国アハト 刑に処されると、ノイモーントフォルトの城と所領はネレンブルク伯、次いでトッゲンブルク伯に 与えられた。1436年にはハプスブルク家に返還され、フェルトキルヒの代官アイテル・ハンス・ ギーンガーによって宮殿や城塔などの大規模な改修が行われた。 その後はほとんど顧みられることなく、1693年に最後の城番とされるウルリヒ・コッホが死去 するころには、荒廃が進行していたとされる。1836年の目録には、「完全なる廃墟」と記されて おり、すでに無人であった。現在、城跡はゲツィス市の所有となっている。 <手記> ノイモーントフォルト城はゲツィスの市街地の背後に延びる舌状の丘上に築かれています。 比高はそれほどないので、街中からはなかなか城山を望むことができません。峰の裏手方面 へ回ると、三差路に地蔵堂のような小さな礼拝堂があり、その脇から登山道が付いています。 城内まで終始案内や説明の類が一切ないのですが、遺構は残っています。もちろん一番の 見どころは主塔で、貧ぼっちゃまスーツのように背後の一面だけが剥がれていました。曲輪の 周囲にも石壁が巡っていますが、城壁というより仕切り壁のような感じで、どこまで遺構なのか は留保が必要なように思います。 肝心の主塔は修復中で、足場が組まれているものの工事が進捗しているようには見えず、 いつ完工するのかは不透明です。郭内からの眺望も限定的で、観光スポットや市民の憩いの 場としては、残念ながら高い評価は得られないでしょう。 登城路は尾根脇を通っており、そこから城域背後の尾根の林に突入すると、土塁や堀跡の ような地形が認められました。ただ、藪に埋もれていて実際に遺構かどうかはこちらも分かり かねます。 ちなみにノイ(neu)とはnewの意で、南東2kmほどのところにはアルト(古)モーントフォルト城 があります。 |
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| ゲツィス市街地から城山と主塔を望む。 | |
| 登城路のようす。 | |
| 主塔を見上げる。 | |
| 露岩の上に直に建てられていることが分かります。 | |
| 郭内のようす。 | |
| 郭内から主塔を望む。 | |
| 郭を巡る石壁。 | |
| 同上。 | |
| 石壁を近くから。 | |
| 郭内からの眺望。 | |
| 主塔脇の建物跡。 | |
| 主塔入口。 修復中で入れませんでした。 |
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| 背後尾根の土塁および堀状地形。 | |
| 同上。 | |
| 主塔を真裏から見上げる。 | |