鳳山県新城(ほうざんけんしん) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 清朝 | |
交通 : 地下鉄鳳山駅または大東駅下車 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1684年に鳳山県が設置されると、県庁は鳳山荘ではなく興隆荘の左営に置かれた。 1787年に林爽文事件が発生すると、荘大田が鳳山で挙兵し、県城を占領した。反乱は 清軍に鎮圧されたが、乾隆帝は鳳山県城を含む台湾5城の石造化を発令した。しかし、 1788年には台湾府城と嘉義県城の2城のみの石造化に縮小され、代わりに鳳山県城の 鳳山荘埤頭街への移転が決定された。そのころ、埤頭街は商人街として発展しており、 住民からも移転を望む声が多かったといわれる。 同年中に建造された城塞は2万本以上の刺竹で城壁が構築され、四方4つの城門を 有していた。鳳山県新城とは、左営の県城(舊城)に対する呼称である。 1795年に陳周全が彰化で反乱を起こし、1800年に福建の海賊である蔡牽が台南の 鹿耳門に進出すると城塁が強化され、1804年には外北門と小東門が増築された。 1805年、蔡牽と吳淮泗が新城を攻撃すると、防衛の面から県庁を舊城に戻すべきとの 建白書が提出され、1807年に実行された。1824年には、楊良斌と許尚の蜂起に際して 新城が暴徒に占拠されている。それにもかかわらず、石造に改修された舊城への移転 は遅々として進まず、官民の多くは新城に留まった。 1838年、当時の県令・曹謹は新城に6基の砲台を増設した。さらに曹公圳と呼ばれる 運河兼水濠を開削し、防備と生活双方の充実を図った。1853年には県庁が再度新城へ 遷され、翌1854年には外壁が土塁に改められた。 日本統治時代に入ると、鳳山のさらなる利便性向上のため、城門や土塁は撤去され、 道路や駅などが建設されていった。 <手記> 左営舊城は、台湾高鉄(新幹線)の終点・高鉄左営(新左営)の南西、蓮池潭のほとりに 位置しています。最寄の台湾鉄道左営駅と高鉄左営駅は別の駅なので注意が必要です。 上述の通り、4つの城門のうち西門を除く3つが残り、南門は交差点ロータリーに囲まれて います。北門と東門の脇には城壁があり、一部が復元という後者のそれは長大で見応えが あります。東門から亀山を回って北門へ至る「見城之道」という遊歩道が整備されています が、むしろこのルート沿いにはあまり見どころがありません^^; 亀山に頂上には戦時中に日本軍が構築したトーチカなどがあります。周囲には石塁なども 見られますが、城の遺構なのかどうかは怪しいでしょう。そもそも日本の城郭と異なり、亀山 自体には防御施設や建物はほとんどなかったようです。北門を抜けた先は義民街といい、 戦後に中国共産党を厭って大陸から渡って来た人向けに住宅地が作られたのだそうです。 そのため、北門だけは今も日常的に人々が往来しています。 西門跡は近年発掘されているようで、地表展示されています。門跡一帯には、特攻ボート 「震洋」隊の基地が置かれていたそうで、城壁と合わせて防空壕も点在する公園として整備 されていました。西門から東門へ向かう途中にも発掘地点があり、今後は調査と史跡保存が 進んでいくものと期待されます。 亀山の南麓には見城館というビジターセンターがあり、舊城を訪れるならぜひ立ち寄るべき でしょう。とくに、ジオラマによるムービー解説はおすすめです。中国語が分からない私でも、 英語と漢字の字幕でおおよその内容は理解できました。また、見城館だけで目にする舊城の ロゴがあり、個人的に優れたデザインだと思っています。この意匠のTシャツなどがあれば、 ぜひお土産に購入したいと思っていたのですが、残念ながらグッズ展開はされていないよう でした^^; 左営は海に近く要害性も備え、また交通上の要地でもあります。もし、日本の大名が高雄に 居城を築くとすれば、やはり亀山に近世的な平山城を築くのではないかなと感じました。 |
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