二之宮城(にのみや) | |
別称 : 二之宮赤城神社、無量寿寺、宮下西館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : JR前橋駅よりバス 「神社裏」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 二之宮赤城神社の外周には、二重の堀と土塁に囲まれた輪郭式の城郭構えがともなって いる。となっている。同社は、その名のとおり上野国二宮であった歴史をもつ古社であるが、 戦国期に北条氏政の軍勢によって徹底的に破壊されたとされる。 昭和六十一年(1986)、赤城神社南東の無量寿寺と神社南西の字宮下西で発掘調査が 行われた。その結果、無量寿寺からは堀跡と堆土が、字宮下西からは二重の堀跡が検出 された。字宮下西の遺構については、宮下西館として『中世城館調査報告書集成』に記載 されている。 <手記> 『集成』では、これら3ヶ所の遺構はそれぞれ別項で扱われており、二之宮城という呼称は 用いられていません。二之宮城というのは、新土塚城にまつわる伝承にのみ登場するもの です。それによると、新土塚城主新土肥前守が二之宮城主に敗れて滅んだとされています。 新土肥前守なる人物の存在は確かめられていませんし、二之宮城がどこにあり、その城主 が誰であったのかも不明です。したがって、この伝承がどこまで事実かは分かりませんが、 二之宮城が存在したとすれば、おそらくこの3遺構のうちのどれかであると推測されます。 赤城神社は、上記のとおり上野国二宮の歴史を持つ格式高い神社ですが、社地を取り巻く 二重の堀と土塁は、明らかに神社ではなく城郭のそれです。外側の堀は北東で鬼門除けの 折れをもっています。神社の両脇は小さな谷戸となっており、現在も水田が広がっています。 これらの生産性の高い谷戸を押さえるためにも、赤城神社の位置は適しているといえます。 赤城神社と谷戸を挟んだ南東に位置する無量寿寺は、周囲を堀に囲まれていたとみられ ています。寺の南には円墳があり、物見台ないし烽火台として使用された可能性も考えられ ます。さらに、宮下西館は赤城神社南東の谷戸にのぞむ傾斜地に位置しています。この館 だけ寺社用地を利用したものではないため、二之宮の在地領主の居館であったとも推測され ます。 いずれも史料には現れない遺構であるため、三者とも謎に包まれた城館であるといえます。 |
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赤城神社外郭西側の堀と土塁。 | |
赤城神社外郭北側の堀と土塁。 | |
赤城神社内郭北側の堀と土塁。 | |
二之宮赤城神社。 | |
宮下西館跡を館西側の谷戸から望む。 | |
無量寿寺南側の円墳。物見台か。 | |
無量寿寺南面。堀跡か。 |