ノルマン城 ( Norman Castle ) |
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別称 : ミッドハースト城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不詳 | |
交通 : ハルスミア駅またはチチェスター駅よりバス。 「ミッドハースト」バス停下車徒歩10分。 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 11世紀前半にノルマン人の砦として築かれたものと推測されている。10世紀末ごろから ノルマン人のデンマーク王スヴェン1世がイングランドへ侵攻するようになり、イングランド王 エゼルレッド2世(無策王)父子が1016年に相次いで亡くなると、スヴェン1世の子クヌートは イングランド王位を継いで(クヌート1世)北海帝国を築いた。 クヌート1世の死後は、子のハーデクヌートが跡を継いだが、摂政としてイングランドを統治 させていた異母兄のハロルドが1037年にイングランド王を自称したため、ハーデクヌートは デンマークからハロルド討伐の準備にかかった。イングランド出陣前の1040年にハロルドは 急逝し、ハーデクヌートがイングランド王に就いた。ハーデクヌートも1042年に若くして急死し、 後をエドワード懺悔王が継いだ。エドワードはエゼルレッド2世とノルマンディー公エマの子で、 同じくエマを母にもつハーデクヌートの異父兄にあたる。これによりイングランド王はノルマン 系から再びサクソン系に戻ることとなった。したがって、ノルマン城がノルマン人の砦である とするならば、1042年までに築かれたものと推測するのが妥当だと思われる。 12世紀初頭、ノルマンディー出身のサヴァリック・フィッツカナがイングランド国王ヘンリー 1世からミッドハーストの町を与えられた。サヴァリックがノルマン城を利用したか否かは不明 である。サヴァリックの孫のフランクは、12世紀末にノルマンディーへ拠点を戻した。そして、 1284年にジョン・ド・ブーンが、ノルマン城のあるアンの丘の麓にカウドレイ館を築いて移り 住んだ。ド・ブーン家は、13世紀前半にラルフ・ド・ブーンがサヴァリック・フィッツジェフリーと 結婚したことでミッドハーストの領主となったものと推測されるが、詳しい経緯は不明である。 いずれにせよ、遅くともこの時点までには、ノルマン城は廃城となったものと考えられる。 <手記> ノルマン城はミッドハーストの町の東、通称「アンの丘」にあったとされています。ラサー川 を挟んだ対岸の平地には、カウドレイ館が建っています。丘の南側にはラサー川の支脈と サウス池があり、周辺では比較的要害性の高いところといえます。ただ、丘自体は緩やか そのものなので、登るのに大した苦労はありません。 ノルマン城は、1913年に初めて遺跡として発見・発掘された城跡です。現在は、そのとき の発掘結果をもとに地表復元された石列のみが城跡のようすを語っています。それによると、 ノルマン城は楕円形の単郭の城で、建物は東辺に集中していたようです。東辺の建物群は、 それぞれ北から台所、ホール、礼拝堂、主塔と続いていたと考えられています。塔の高さは 不明ですが、ホールについては地上2階、地下1階程度の規模であったと推測されています。 ただし、1994年に部分的な再調査が行われた結果、1913年の調査結果については一部 疑問が呈されているようです(建物の規模や使用年代など)。さらに、単郭とされてきた主郭 の城壁の外側にも城域が広がっていた可能性も示唆されています。 このように、中世城郭ファンとしては新たな発見が非常に楽しみな城跡ですので、今後の 継続的な調査を期待したいところです。ちなみに、表題の写真は台所跡の地表復元部です。 |
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カウドレイ館からノルマン城址のアンの丘を望む。 | |
ホール跡の地表復元部。 | |
礼拝堂の地表復元部。 | |
主塔の地表復元部。 | |
外壁の地表復元部。 |