能見城(のうけん)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 守屋氏か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR中央本線穴山駅徒歩10分


       <沿革>
           一般的には、天正九年(1581)に築城が開始された新府城の支城として築かれたと
          される。ただし、現地に建てられている「守屋一族発祥の地」碑によれば、武田信玄の
          家臣守屋新兵衛尉定知が守備していたとされる。同碑は守屋氏の子孫が建てたもの
          だが、守屋氏の出自や守屋定知なる人物については明らかでない。碑の伝える内容
          に準拠すれば、能見城は新府城築城の少なくとも8年以上前には存在していたように
          書かれている。
           山城部とは別に、能見城の北麓には七里岩を東西に断ち切る防塁遺構がある。この
          塁については、新府城築城とともに武田勝頼によって築かれたとも、天正十年(1582)
          の天正壬午の乱に際して徳川家康によって設けられたともいわれる。この塁を広義の
          能見城に含める場合も多くみられるが、山城部は遅くとも勝頼が新府城を放棄したのと
          同時に廃棄されたものと推測される。


       <手記>
           能見城は、釜無川と塩川に挟まれた七里岩と呼ばれる狭隘な断崖の台地上に散在
          する独立丘の1つに築かれた城です。穴山駅側の西麓から登ることができます。
           山頂は配水場となっていて、その脇に能見城址の看板と前述の碑が建っています。
          山頂の南側には、長靖寺と書かれた集落の集会所と見紛うような寺もあり、どこまでが
          城跡でどこからがこれらの建物の建設に伴う造成なのか判別しがたい状態です。部分
          的に、土塁や切岸と思しき箇所も見受けられますが、これらをもとに全体の構造を把握
          するのは困難です。
           このように、能見城は新府城の支城とはいうものの、それほどしっかりと普請された
          ようすはうかがえません。城山も独立丘ではあるものの、山容は決して険しくはなく、
          支城とはいっても兵の集積のための陣城程度のものであったと推測されます。守屋氏
          が存在し信玄の頃から城があったとしても、やはり伝えの城程度の域を出るものでは
          なかったでしょう。
           前述のとおり、城山の北麓には山上の城とは別に七里岩を東西に断ち切る土塁線が
          存在したことが明らかとなりつつあります。この土塁線は横矢を駆使したかなり複雑な
          構造をしているとのことで、このラインが構築された時点で、山上の能見城の利用価値
          は物見・狼煙以上のものではなくなったと思われます。したがって、防塁の構築時期は
          能見城の廃城時期とほぼ重なるものと考えられますが、これには勝頼の新府城築城
          時とする説と家康による天正壬午の乱に際してとする説の2つがあるようで、まだ確定
          はしていません。
           いずれにせよ、能見城は今のところ謎の多き城であるといえると思います。

           
 新府城址より能見城址を望む。
能見城址の看板と守屋一族発祥の地碑。 
 山頂南側。土塁跡か。
 右手に長靖寺があり、曲輪跡のようにも見えます。
山頂東側。土塁と虎口の跡か。 
 山頂北側。切岸跡か。


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