新府城(しんぷ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 武田勝頼
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、井戸跡など
 交通  : JR中央本線新府駅徒歩15分


       <沿革>
           天正九年(1581)、躑躅ヶ崎館に代わる武田氏の本拠として、武田勝頼により築城が
          開始された。移転の背景には、同三年(1575)の長篠の戦いでの敗北によって拡大方針
          が頓挫し、その後上杉氏と同盟を結んだために織田・徳川・北条の3氏と敵対することと
          なり、甲斐国内での防衛戦に備える必要性が出てきたことが挙げられる。
           城地選定には穴山梅雪が進言し、真田昌幸が普請にあたったといわれている。新府の
          すぐ北には、穴山氏の本貫地穴山がある。現在残っている築城に関する諸文書からは、
          国内の人足を総動員して昼夜兼行で作事が進められたことがうかがえる。工事は二月に
          始められ、九月には一応の落成をみたとされる。勝頼自身は同年十二月に入城した。
           翌十年(1582)一月、勝頼の義弟木曽義昌の離反を契機に、織田・徳川連合軍による
          本格的な武田氏攻めが始まった。家中からも寝返りが相次ぎ、三月二日に高遠城が落と
          されると、勝頼は新府での籠城戦を諦め、城に火を放った。勝頼は、小山田信茂を頼って
          岩殿城を目指したが、信茂の裏切りにより天目山で自害した。
           同年六月の本能寺の変で織田信長が斃れると、武田氏旧領を巡って天正壬午の乱が
          発生した。徳川家康は新府城跡を取り立てて本陣とし、北条氏直の本陣若神子城と対峙
          した。同年十月に両氏の間に和議が成立すると、新府城は廃城となった。


       <手記>
           塩川と釜無川に挟まれた七里岩は、その名のとおり断崖絶壁が数十kmにわたって続く
          細長い台地です。その上には独立した小丘が点在し、新府城はそのなかで最大級のもの
          の1つを利用して築かれた城です。西は断崖、東側も急斜面になっていて、天然の要害を
          なしています。
           新府城址は国の史跡に指定されていて、断続的に発掘調査が行われています。遺構の
          保存状況も良好で、部分的に調査結果をもとに整備されています。本丸跡には藤武神社
          や勝頼の霊社などがあります。
           新府城の一番の見どころは、おそらく北麓の出構でしょう。裾を囲うように大規模な土塁
          線と堀が設けられていますが、そのなかに2ヶ所凸状に飛び出した出構があり、それぞれ
          西出構・東出構と呼ばれています。この出構は、まさに西洋式近世都城の稜堡の役割を
          果たしたと考えられます。一般的に武田氏=騎馬軍団というイメージが持たれているなか
          で、銃火器の用法に対する研究も行われていたのだという証左といえ、興味深い遺構と
          いえるでしょう。
           山頂の本丸は、城内最大の方形の曲輪で、勝頼の居館が営まれていたものと推測され
          ています。神社本殿と城址碑の間に広い窪地がありますが、これは館に伴う池泉遺構と
          考えられています。本丸の西側には虎口が2つ開いていて、虎口を出た先にはそれぞれ
          土塁で囲まれた小規模な曲輪が付属しています。現地の説明では馬出となっていますが、
          どちらかというと外桝形という方が正しい気がします。本丸の西には二の丸があり、その
          南側にはやはり現地で馬出と呼ぶやや広い曲輪があります。こちらも、馬出というよりは
          二の丸付属の腰曲輪といった感じがします。このように、現地の説明はなにかと武田流
          築城術を誇大に喧伝したがっているようなきらいがあるように思います。本丸虎口の内側
          についても、城内が透けて見えないよう蔀(しとみ)の構となっているとありますが、蔀云々
          以前に虎口として普通にありうべき形状です。
           本丸の北には三の丸があります。三の丸は直線の段差によって2段に分かれています。
          三の丸の南に大手があり、大手口は内桝形と丸馬出の2段構えになっています。馬出の
          外側は三日月堀となっていますが、この馬出の土塁は城内屈指の高さといえ、大手口の
          構えが新府城でもっとも心血の注がれた部分の1つであると思われます。
           城の北西には、搦手と井戸跡があります。この井戸は擂り鉢状の大きなもので、発掘
          結果をもとに外観復元されています。搦手には2本の土橋に挟まれた曲輪があり、曲輪
          内部には桝形が設けられています。搦手口から城山の北麓、そして東麓にかけて巨大な
          堀が巡っていて、国道を挟んだ東側には水戸違いのような土塁も見受けられます。
           総じて、新府城は大手口や搦手口など外周の構造は手が込んでいるものの、本丸から
          三の丸までの主城部は直線を基調としたわりと単純なつくりとなっているように思います。
          もともとそのようなプランだったのか、まだ未完成だったのかは分かりませんが、新府城の
          ひとつ大きな特徴といえるでしょう。


           
 新府城址を西側から望む。
新府城本丸跡碑標柱。 
奥の藤武神社本殿との間は池泉跡。 
 本丸南面の土塁。
本丸南西隅の虎口。 
 本丸虎口先の曲輪。
二の丸の土塁。 
 搦手の曲輪。
搦手の堀。 
 搦手の土橋。
井戸跡。 
 西三の丸のようす。
東西三の丸を分ける段差。 
 大手口の桝形。
大手丸馬出。 
 丸馬出下の三日月堀を望む。
出構。手前と奥に2ヶ所。 
 城山東麓の堀と土塁。水戸違いか。


BACK