小幡城(おばた)
 別称  : 小幡陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 織田信昌
 遺構  : 石垣、土塁、堀、門跡、庭園
 交通  : 上信電鉄上州福島駅よりバス
       「城町」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           織田信雄の四男信良は、父の所領の内、上野国甘楽郡2万石を分知された。信良は
          福島村に陣屋を構えたが、信良の子信昌の代の寛永六年(1629)に、小幡陣屋の建設
          と移転が決定された。ただし、当時信昌は4歳の幼児だったため、信昌の後見役で信良
          の弟織田高長(後の宇陀松山藩主)が、移転に大きくかかわっているものと推測される。
           『楽山園由来記』によれば、元和七年(1621)に、信雄が今も小幡城址に残る楽山園
          を造営したとされる。これが正しければ、先に庭園が築かれていた所に陣屋が築かれた
          ことになる。ただし、元和七年時点では、すでに甘楽郡は信良に分知されており、本領
          である宇陀松山藩内を差し置いて小幡に庭園を造営するに足る理由があったかは疑わ
          しい。また、そもそも信雄が飛び地である小幡に自ら足を踏み入れた記録もない。
           陣屋は、城下の整備も含めて寛永十九年(1642)に完成したとされる。小幡藩織田家
          は、織田信長の直系子孫ということで国主格を与えられていたが、明和四年(1767)の
          いわゆる明和事件に巻き込まれ、7代信邦は国主格召し上げの上、出羽国高畠へ移封
          となった。
           代わって、奥平松平忠恒が、同じ上野国内の上里見藩から2万石で小幡に入封した。
          忠恒の曾孫忠恵の代の嘉永三年(1850)、小幡藩は城主格に上げられ、「小幡陣屋」は
          「小幡城」と呼ばれることになった。しかし、20年と経たずに明治維新を迎えた。

       <手記>
           小幡城は、雄川の河岸段丘上に選地されており、小幡は雄川が鏑川の形成する開け
          た平野部に出る喉口部に位置しています。城とはいっても、上記の通り幕末の20年弱の
          間そう呼ぶことを許されたというだけなので、内容は完全に陣屋です。
           最近、楽山園を中心に陣屋跡が整備されました。藩主邸跡は地表復元され、庭門など
          3つの門が推定復元されています。また、使用人たちが暮らしていた拾九間長屋が外観
          復元され、内部は展示スペースなどになっています。
           小幡城は、楽山園を最奥とし、その北に藩主邸を置き、その周囲を外郭が¬型に覆う、
          矩形を基調としたつくりとなっています。藩主邸の周囲は土塁と空堀で固められており、
          一応もっとも城郭っぽい雰囲気を感じさせてくれます。また、表門にあたる中門は、内側
          が小規模ながら桝形となっています。
           小幡城の見どころは、完全に城よりも楽山園の方でしょう。群馬県内では唯一残って
          いる大名庭園だそうで、非常に美しく整備されています。2万石の大名には分不相応と
          いえる広大な敷地に、周囲の山々を借景とした、楚々たる景色が広がります。
           また、城下にも、魅力ある武家町の風景が残されています。中門前の通り沿いには、
          周囲を石垣で固めた屋敷が数軒並び、そのうちの1つには「喰い違い郭」と呼ばれる、
          桝形状の屋敷口をもつお宅があります。防衛上の工夫であるほか、下級武士が上級
          武士と鉢合わせないよう隠れるのにも役立ったといわれているそうです。
           藩主邸の北東500mほどのところの、歴史資料館前の交差点付近が大手門跡とされ、
          門の礎石が脇に展示されています。門の東脇には、雄川からひいた雄川堰が流れて
          おり、小幡が雄川と雄川堰に挟まれた城塞都市として機能していたことが分かります。
           このように、町としては素敵なのですが、1つ分からないのは、なぜ信州街道筋の福島
          からわざわざ山間へ引っ込んだ小幡へ移転したのかという点です。時代に逆行したかの
          ような選地の裏に、どのような理由があったのか関心は湧くばかりですが、答えは得られ
          そうにありません。
           今回、小幡へは富岡製糸場へ行ったついでに寄ったのですが、私が城跡好きである
          ということを除いても、富岡製糸場よりも小幡の城下町歩きの方が楽しく感じられました。
          詳しくは、リンク先をご覧下さい。

           
 小幡城復興中門。
土塁と空堀。 
 藩主邸北門跡。
藩主邸跡のようす。 
 楽山園のようす、その1。
その2。 
 楽山園の築山から城内を望む。
 右手中ほどに復興庭門。
 右手奥の細長い建物が復興拾九間長屋。
城下の旧武家屋敷群の石垣。 
 通称「喰い違い郭」。
大手門跡の展示礎石。 


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