高畠城(たかはた) | |
別称 : 高畑城、鐘ヶ城、屋代城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 樋爪季衡か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : JR奥羽本線米沢駅徒歩5分 | |
<沿革> 承安年間(1171〜74)に、藤原清衡の四男清綱の子である樋爪五郎季衡が 築いたとする伝承がある。ただし、樋爪氏の本貫は陸奥国紫波郡日詰(現在の 岩手県紫波町)とされ、この地を領したとする記録はない。 天授六/康暦二年(1380)ごろから、梁川の伊達宗遠・政宗父子が長井郡の 長井氏を攻撃したが、高畠城はその際の伊達氏の侵攻拠点となった。このとき までに高畠城が築かれていたことになるが、その経緯は詳らかでない。長井氏 は元中二/至徳二年(1385)に攻め滅ぼされ、政宗は応永十二年(1405)に 高畠城で没したとされる(異説あり)。この後、高畠城は伊達氏の置賜支配の 拠点となり、所在する郷名をとって屋代城とも呼ばれたといわれる。 天文十七年(1548)、天文の乱を制した伊達晴宗は、居城を桑折西山城から 米沢城へ移した。高畠城には、伊達家重臣小梁川盛宗が城主として入った。 天正十九年(1591)、葛西大崎一揆を扇動した疑いにより、伊達政宗が長井 を含む6郡を没収されて大崎・葛西旧領へ移されると、政宗旧領は蒲生氏郷に 与えられた。蒲生家は慶長三年(1598)に宇都宮へ減転封となるが、この間の 高畠城の扱いは不明である。 蒲生旧領に移された上杉景勝は、春日元忠を高畠城代に任じた。慶長五年 (1600)の関ヶ原の戦いにより上杉家が米沢30万石に減封されると、直江兼続 の弟である大国実頼が高畠城代となった。その後も、高畠城は事実上の支城 にあたる「役屋」として存続した。 寛文四年(1664)、米沢藩は末期養子の不手際により、屋代郷3万石を含む 15万石を没収された。屋代郷は天領となり、高畠城はいったん廃城となった。 明和四年(1767)、小幡藩主織田信邦が明和事件に連座して蟄居させられ、 弟の信浮が跡を継ぐと、高畠2万石へ懲罰的に移封された。信浮は高畠城跡を 藩庁に定めたが、国主格を剥奪されていたため、以後は高畠陣屋と呼ばれる。 織田家の置賜郡における所領は高畠周辺の6か村しかなく、文化七年(1810) には陣屋が焼失するなど、藩政は困窮を極めた。3代藩主信美は、所領の4分 の3が集まる村山郡への移転を図り、天保元年(1830)に幕府の許可が下りて 陣屋を天童に移した。これにより、高畠陣屋も廃されることになった。 <手記> 高畠小学校とたかはたこども園の間に地図上でも分かる水濠が残っており、 まずはここを目標にしましょう。その東端付近、小学校校門の向かいあたりに、 「高畑城堀跡」の石碑が建っています。 濠の西端に転じると、そこから鐘ヶ城の別称の由来とみられる、曲輪外縁の カーブが、生活道路として辿れます。水濠の裏手の更地には、土塁の痕跡とも 思える土盛り地形もあります。 高畠は、二井宿峠を越えて白石と、鳩峰峠を越えて福島と繋がっています。 伊達宗遠は家臣茂庭氏とともに長井へ攻め入ったとされ、茂庭は鳩峰峠の麓 にあるため、このルートを通って侵攻したようすがありありと想起されます。 |
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高畑城堀跡の石碑。 | |
水濠跡。 | |
曲輪のラインとみられるカーブした生活道路。 | |
濠裏手の土盛り地形。土塁跡か。 |