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兵部平屋敷(ひょうぶだいら) |
| 別称 : なし | |
| 分類 : 平城 | |
| 築城者: 飯富兵部少輔か | |
| 遺構 : なし | |
| 交通 : 中部横断自動車道中富ICから車で5分 | |
<沿革> 飯富兵部少輔の居館と伝えられる。飯富兵部といえば、武田信虎・晴信(信玄)父子に仕えた 飯富虎昌が知られる。飯富氏は清和源氏満政流・源重時の養子となった季遠の子・季貞ないし その子・宗季が、上総国望陀郡飯富庄に入植したことにはじまるとされる。他方で、宗季が甲斐 源氏流・逸見光長の養子となって甲斐国巨摩郡飯富郷に入り、飯富氏を称したとする説もある が、一般には飯富氏が居を構えたことから飯富郷の地名が生じたと解されている。ただし、地名 の読みは「いいとみ」だが、飯富氏および飯富庄は「おぶ」である。 いずれにせよ、甲斐飯富氏累代ないし虎昌一代の居館ということになるが、史料上の裏付け はない。虎昌は永禄八年(1565)、義信事件に連座し自害を命じられた。このとき、同じ巨摩郡の 重臣・穴山信君の弟・信嘉(信邦)も切腹していることから、虎昌の本領がこの地にあり、穴山氏 と同様に今川氏と近しい立場にあったという推測が成り立ちうると考えられる。 虎昌の処断により飯富氏も断絶となったとみられ、弟(甥とも)の昌景は信虎の代に絶えていた 山県氏の名跡を継承した。その後の兵部平の屋敷については定かでない。 <手記> 永久寺や飯富八幡神社の建つ緩やかな峰先の舌状部が兵部平だそうです。ただし、一見して 分かるとおり台地の上は開墾により広く均されており、当時の地形はおろか正確な屋敷の位置、 さらにいえばそもそも屋敷があったのかどうかも判然としません。早川を挟んだ南側は穴山氏の 本拠地の下山で、もし飯富氏の居館があったとすれば、武田家を代表する重臣2氏が並び、また 身延山久遠寺も南に控える、甲斐の一大サロンのような要衝であった可能性も考えられます。 |
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| 永久寺。 | |
| 飯富八幡神社。 | |
| 境内裏手のようす。 | |
| 境内脇の切通し道。 | |
| 境内からの眺望。 | |