膳所城(ぜぜ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 松浦定
 遺構  : 不詳
 交通  : 小値賀港ターミナルよりバス
       「中村」下車徒歩2分


       <沿革>
           14世紀前半に、嵯峨源氏松浦党の一族松浦定によって築かれたとされる。建武
          元年(1334)、定は膳所城前の瀬戸を埋め立て、建武新田と呼ばれる開拓地帯を
          設けた。定の跡は子の勝が継ぎ、島に長寿寺を建立した。
           定・勝父子は江戸時代に平戸藩として続いた平戸松浦氏の祖とされるが、父子
          の前後の系譜については詳らかでない。膳所城の動向についても不明である。

          
       <手記>
           膳所城のある小値賀島は、南北に長く連なる五島列島のうち、フェリー港のある
          大きな島としては宇久島に次いで北から2番目にあたります。空港はなく、他の島
          か博多・佐世保から船で渡るほかありません。小値賀島のすぐ南の中通島以南は
          江戸時代には福江藩領であったのに対し、小値賀島と宇久島は平戸藩領でした。
          その点は現在にも現れていて、宇久島は佐世保市に編入、小値賀島は北松浦郡
          小値賀町を形成しているのに対し、中通島の新上五島町は南松浦郡に所属して
          います。島民の意識レベルでも、なかなか五島列島としてまとまったアクションを
          起こすことができないのだと、列島旅の間ちらほらと耳にしました。
           さて、そんな小値賀島は、もともと膳所城前を南北に貫く細い瀬戸によって東西
          2つの島に分かれていました。上述のとおり埋め立てによって今日の一体の島と
          なったわけですが、それまで膳所城は入り江に臨む海城だったことになります。
          建武新田をみてもその幅は海峡としてはとても狭く、あまり大きくない船を着ける
          にはちょうど良かったのでしょう。ちなみに建武新田はきれいな短冊状に水田が
          並んでいますが、これは後世の土地改良などではなく、当時からの区割りなのだ
          そうです。
           上の地図の緑丸地点に、城跡の標柱と松浦(源)定の顕彰碑が立っています。
          一応、三方を低地の水田に囲まれた岬状の地形で、室町初期の開発領主の館
          程度なら十分あり得る地形です。ところが、後日調べたところ実際の城跡は新田
          神社にあり、それは標柱のある場所から1つ南の丘であることがわかりました。
          再び訪れることはあるのか…悔やまれます。
           とはいえ標柱のある丘にも、脇に古い石祠があり、斜面や上部平面に人の手が
          入っているようなようすは見受けられます。新田神社の丘は、居館というより詰城
          といった感じなので、平時の館はこちらにあったという可能性も、なきしにもあらず
          と思いました。丘の中心を幹線道路が切通しで貫通しているため、確かめるのは
          困難ですが。
           ちなみに、膳所城主の小値賀松浦氏について、定・勝父子のほかには名前が
          名前が伝わっていません。江戸時代の平戸藩松浦家は小値賀松浦氏の後裔と
          称していますが、これも途中の系譜が不明です。あるいは、小値賀島を平戸藩領
          に取り込むにあたって、隣り合う福江藩領に対し小値賀松浦氏を家祖と宣言する
          ことによって、領有の正当性と島民の帰属意識を得ようとしたのかなと、少々敷衍
          気味に勘ぐってしまいました。

           
 膳所城跡標柱。
松浦(源)定頌徳碑。 
 標柱前のようす。
標柱脇の斜面。 
左手中央に石祠が見えます。 
 同じく斜面のようす。
斜面上の平場。 
 建武新田と右手に新田神社の丘。
建武新田。 
細い長方形の区画は当時のままだそうです。 


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