大河原城(おおかわら)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 香坂高宗か
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : 中央自動車道松川ICから車で30分


       <沿革>
           南北朝時代に宗良親王を迎えた南朝の忠臣・香坂高宗の居城とされる。香坂氏といえば、
          滋野氏の一族で上水内郡に勢力をもち、同時期に南朝方として活動した香坂心覚がいるが、
          高宗と関係があるのかは定かでない。香坂氏がいつごろどのような経緯で大河原に居住し、
          城を築いたのかも不明である。
           康永二/興国四年(1343)の末、高宗は小渋川のさらに上流奥地に宗良親王の御座所を
          造営し、大河原は信州のみならず周辺各国の南朝方の中心地として機能した。南朝の劣勢
          が続くなか、応安二/正平二十四(1369)には関東管領兼信濃守護の上杉朝房が大河原へ
          攻め寄せたが、親王および高宗はこれを撃退している。
           応安七/文中三年(1374)、宗良親王はついに大河原を去って吉野へと上った。しかし、
          その後も大河原を訪れた記録がみられ、一説には至徳二/元中二年(1385)に大河原から
          諏訪へ向かう途上、三峰川沿いの長谷で薨去したとされる。終生親王を守ってきた高宗は、
          南北朝合一後の応永十四年(1407)に大河原城で没したと伝わる。
           その後の大河原香坂氏および大河原城については詳らかでない。


       <手記>
           大河原城は、大鹿村を構成する2つの地域(「大」河原と「鹿」塩)のうち、大河原の中心部
          から小渋川をさらに分け入った上蔵(わぞ)という集落にあります。福徳寺に車を止めて東へ
          少し歩くと交差点に標柱があり、住居の間を南下すると城跡に辿り着きます。
           小渋川に臨む崖端の館城だったとみられますが、今日では大部分が崩落し、空堀と曲輪
          のごく一部が残るのみです。物見台程度にまで削られた曲輪跡には石碑と説明板が建ち、
          そこには天文二十三年(1554)に山本勘助が攻め落としたとありますが、軍師・山本勘助の
          実在性も含めて、事実とは思えません。
           福徳寺から北西へ上がると、香坂高宗の墓跡があります。また福徳寺自体も、解体調査の
          結果、室町時代前期の築と推定され、天台座主であった宗良親王によって建立されたものと
          考えられています。ちなみに、宗良親王の御座所があった御所平への山道は、落石等により
          通行止めとなっていました。

           
 大河原城の曲輪残存部。
曲輪跡に建つ石碑と説明板。 
 崩落面を見下ろす。
崩落面から曲輪跡を見上げる。 
 空堀を俯瞰。
福徳寺。 
 香坂高宗墓跡。
墓跡から上蔵集落を見渡す。 


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