大串次郎館(おおくし)
 別称  : 大串次郎重親館、大串館、大串氏館
 分類  : 平城
 築城者: 大串孝保か
 遺構  : 堀、土塁か
 交通  : 川越駅または鴻巣駅からバスに乗り、
      「荒子」下車徒歩3分


       <沿革>
           武蔵七党の1つ横山党の庶流大串氏の居館とされる。大串氏は、武蔵権守小野義孝の孫
          経兼の子由木保経の次男孝保が、横見郡大串郷に入植したことにはじまるとされる。孝保の
          子の次郎重親は、寿永三年(1184)の宇治川の戦いにおいて、烏帽子親である畠山重忠に
          従って従軍している。『平家物語』には、このとき重親と重忠は渡河の途中で乗馬を流され、
          重親が重忠にしがみついたところ、重忠は怪力をもって重親を対岸まで放り投げた。岸辺に
          立った重親が「歩立(かちだち)の先陣ぞ」と名乗りを上げると(騎乗での先陣は佐々木高綱
          が切っていたため)、敵味方とも大笑いしたという逸話が載せられている。
           重親以降の大串氏の動静については定かでない。文明十二年(1480)の『太田道灌状』
          には、長尾景春の乱に際して景春方として高佐須城に籠もっていた大串弥七郎が、道灌に
          内通して落城のきっかけを作ったことが記されている。この弥七郎を重親の後裔とする説が
          あるが、確証はない。


       <手記>
           市野川の堤防から河川側に下りた上の地図の位置に、東西方向の堀および土塁状地形
          と、南北方向の土塁状地形があり、館の遺構といわれています。ただし、大串次郎の館跡
          については、もう150mほど東側にあったとする説もあります。いずれにしても市野川堤防の
          内側の河川敷に位置していることには違いありません。
           南北の土塁は完全に藪の中で、視認は難しくありませんが、写真に収めるのは困難です。
          東西方向の堀と土塁も竹藪を抜けた先にありますが、こちらは比較的明るいので、踏査し
          やすく見つけやすいでしょう。
           とはいえ、これらの遺構が城館跡のものかどうかは留保が必要と思われます。堤防には
          不要な造作ですが、平安末の武士の館跡にしては少々きれいに残りすぎているように感じ
          ます。あるいは戦国時代の大串弥七郎の居館かもしれませんが、いずれにしても表面観察
          ではたしかなことはいえません。
           館跡の北西200mほどのところには、重親が建立したと伝わる大串山金蔵院があります。
          車で来る場合は、門前に駐車スペースがあるので、こちらを利用するとよいでしょう。境内
          から西に少し外れて歩くと、畑の中に重親のものとされる宝篋印塔があります。この宝篋
          印塔は、永和二年(1376)の銘があることから重親の墓とするのは創作とみられていました
          が、保存修理の際に塔の下から鎌倉時代の骨壺とみられる渥美産の大甕と中国産の白磁
          の壺が見つかり、再考の余地が出てきているそうです。
           ちなみに、現在の地名の読みは「おおくし」ですが、大串氏については「おおくし」と「おお
          ぐし」の2つが混在していて、どちらが正しいかは定かでありません。

           
 堤防上から館跡比定地を俯瞰。
東西方向の土塁。 
 同土塁と堀跡。
南北方向の土塁。 
 金蔵院西方の伝大串次郎宝篋印塔。


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