小島城(こじま) | |
別称 : 児島城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 児島氏か | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : JR東海道本線守山駅よりバス 「河西口」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 小島天満宮一帯が城跡と伝わる。城主については定かでないが、天満宮の社伝に よると、嘉暦元年(1326)に児島高徳が社殿を造営したとされる。ただ、高徳は備前の 国人であり、元弘二年(1332)の後醍醐天皇の決起によって世に出た人物である。 嘉暦元年の時点では高徳が近江に神社を造営する理由が見当たらず、疑問が残る。 さらに天満宮には、児島高徳の子孫の児島重範なる人物が、元亀元年(1570)に 植えた杉があったと伝わる。児島重範についても史料上は実在が確認できず、事実 かどうかは明らかでない。 <手記> 小島天満宮に神社の縁起を記した石碑があり、ここに小島城についても詳しく触れ られています。小島城については滋賀県安土城郭調査研究所発行の『淡海の城』で 「現況不明」とされていますが、私が見たところかなり遺構のはっきりしている城です。 神社の南辺に明確な土塁があり、内側から見た高さは1mないくらいですが、外側と の比高差は4mほどはあるかなり立派なものです。社伝によれば、創建に際して高徳 が社地の西に池を掘ったとされていますが、あるいはこの土塁の外側に堀を兼ねて 穿ったものかもしれません。 天満宮の門前から集落の北そして西へと、半円状に水路が走っています。『守山城 物語』に掲載されている地籍図によれば、この水路の内側に「堂ノ後」「木戸」といった 小字が、水路の外側に「墓ノ垣ト」「正三垣ト」「ヒタチ垣ト」といった小字が見受けられ ます。これらの「垣ト」とは、「垣外」すなわち城外を指すものと考えられ、この水路が 小島城の外濠であったものと推測されます。神社の南には、土塁に沿った直線状の 水路があり、これが当時のままであれば、城はかまぼこ型を、そうでなければ円形に 近い構造をしていたものと思われます。 城主についてですが、児島高徳が築いたとするのはさすがに無理があるでしょう。 ただし社伝によれば、天満宮の造営以前は杉和賀村と呼ばれていたということから、 高徳の子孫ないし一族がこの地に住し、一帯も小島と呼びならわされるようになった と考えることは可能かと思われます。裏付けはできませんが、小島氏(児島氏)という 在地領主がいて、小島城がその居城であったとすることは十分に首肯できます。 |
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小島天満宮境内の土塁。 | |
土塁の上から外側を望む。 | |
天満宮門前の水路。外堀跡か。 | |
同上。左手が字木戸、右手が字平等院。 |