水城(みずき) | |
別称 : なし | |
分類 : 土塁 | |
築城者: 中大兄皇子 | |
遺構 : 土塁、礎石 | |
交通 : JR鹿児島本線水城駅または 西鉄天神大牟田線下大利駅徒歩5分 |
|
<沿革> 天智天皇三年(664)、大宰府防衛防衛のために築かれたとされる。この前年、日本は 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗し、本土侵攻の危機を感じていた。『日本書紀』 には、「又於筑紫 築大堤貯水 名曰水城」とあり、今日に残る土堤に水を貯めたもので あったことがうかがえる。建設には、朝鮮半島から逃れた百済の官人が主導的な役割を 担ったとされる。翌四年(665)には大野城や基肄城といった古代山城が築かれ、大宰府 の防衛網が完成した。 しかし、恐れていた唐軍の襲来はなく、天平二年(730)には大伴旅人が遊女との別れ を惜しむ歌を水城で詠んでいることから、このころには寂寥感を催すほどには廃れていた ものとみられている。 天平神護元年(765)には、采女朝臣浄庭が「修理水城専知官」に任じられた。これに 先立つ天平勝宝八年(756)には怡土城の築城が始まっており、このころ大陸との間で 緊張状態にあったものと推測されている。 文永十一年(1274)の文永の役(元寇)の際にも、元軍に備えて改修が加えられたと されるが、やはり戦場となることはなった。これ以降、水城が再び歴史の表舞台に登場 することもなく、自然に朽ちていったものと思われる。 <手記> 水城は、大野城のある四王寺山脈の西麓にあり、御笠川の隘路を塞ぐように築かれた 土塁です。「水城」という名称から、土塁そのもの以上に「貯水」によって防衛する構想の 施設であったものと推測され、「貯水」の意味するところに関心が集まっているように思わ れます。 大まかにいえば、問題の中心は水の貯められていたのは土塁の前方か後方かという 点にあるようです。後者の説は、土塁をもって御笠川の水を堰き止め、敵が土塁に取り ついたところで堰を切って水攻めにするというもののようです。ただし、大宰府からさほど 離れていないところで川を堰き止めるのが合理的であるとは思えず、素直に前面の堀に 水を貯めたとみる方が自然なように感じられます。 また、一般にいう水城の西には小水城という同様の土塁があり、『日本城郭大系』に よれば牛頚川の西側にも複数の土塁が存在するということです。これらがすべて水攻め にするための堰であったとは考えにくく、こうした土塁群のうちもっとも重要なものに水濠 を付属させ、そこから水城の名が生じたとすのが妥当なところではないかな、と個人的 に推察しています。 小水城に対して、御笠川の水城を「大水城」と呼ぶ場合もあるようですが、この大水城 の両端には東西の門があったとされています。このうち、東門跡の礎石が1つだけ現存 しており、柱穴のあいた礎石の脇には水城跡の石碑が建てられています。その前面を 走る旧道が、大伴旅人が遊女との別れを惜しみつつ歩いた道だと思われ、万葉の昔が しのばれます。 また、JR水城駅のすぐ南側には、鉄路によってカットされた土塁の断面が解説付きの 券が億スポットとして整備されています。駅の出口から踏切を渡って反対側に出ると、 少し歩いて西門跡に出ます。そこから土塁沿いに散策路が伸びていて、やがて遊水地 のある林に入り、丘を抜けてさらに5分ほど歩くと、上大利小水城に至ります。 ちなみに、九州自動車道や福岡南バイパスの建設に際して、水城の遺構や景観を できるだけ破壊しないように注意が払われたそうです。土塁の切れ目である御笠川の ほぼ直上を通り、高さも土塁より低なるよう設計されています。 |
|
東門礎石と水城跡石碑。 | |
岩屋城址から水城を望む。 | |
御笠川東岸土塁近望。 | |
東岸土塁の前方側。 ここに水を貯めて堀としたものか。 |
|
西門跡。 | |
西岸土塁のようす。 | |
JR水城駅南東の土塁断面広場。 |