大妻氏館(おおつまし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 大妻氏
 遺構  : なし
 交通  : JR大糸線梓橋駅からバスに乗り、
      「大妻口」下車徒歩1分


       <沿革>
           在地領主・大妻氏の居館とされる。現地の石碑には、大妻氏は神家(諏訪氏)の一族とあるが、
          系譜は詳らかでない。大妻氏2代とされる大妻太郎兼澄は、承久三年(1221)の承久の乱で宮方
          として馳せ参じた。宮方は幕府軍に敗れ、兼澄は自害したとも生き延びて後鳥羽上皇と共に隠岐
          へ流されたともいわれる。
           いずれにせよ承久の乱によって大妻氏は没落し、石碑によれば代わって宮高氏が大妻の地に
          はいったとされる。宮高氏の出自も定かでないが、南北朝の争乱で南朝に属し、やはり衰退した
          とみられる。


       <手記>
           大妻氏館は北大妻集落の南側にあったとされ、遺跡地図によればおよそ上に図示した範囲と
          されています。北東隅の交差点近くに件の石碑が建ち、昭和12年の建造とて碑文がかなり読み
          にくいのですが、東西80間・南北90間の規模で、当時は東西北の三方に堀跡が巡り、残る南辺
          は窪地になっていたそうです。現在は宅地化や土地改良により、それらの遺構は失われている
          ようです。
           ちなみに、大妻学院創立者である大妻コタカは、この大妻氏の子孫を称する宮内省御陵係の
          大妻良馬の妻だとか。コタカ自身は広島県の出身で旧姓は熊田ということから、直接の縁がある
          わけではないようですが、学院名の由来であることにかわりはなく、「大妻コタカ記念会」が大妻
          神社の例大祭に毎年参加しているそうです。

           
 大妻氏館跡石碑。
館跡現況。 


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