奥谷城(おくだに) | |
別称 : 蕪丸 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 波多野清秀 | |
遺構 : 土塁、堀、曲輪、虎口跡 | |
交通 : JR福知山線篠山口駅からバスに乗り、 「重兵衛茶屋」下車徒歩20分 |
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<沿革> 丹波の戦国大名波多野氏初期の居城である。丹波波多野氏は、15世紀後半に波多野清秀が 細川政元から多紀郡代に任じられたことにはじまるとされる。清秀は、子の元清が描かせた肖像 にある月舟寿桂の賛によれば石見国吉見氏の出身で、18歳のときに上洛して細川勝元に仕え、 その命で母方の波多野姓を名乗ったとされる。ただし、清秀の母の出自は不明である。 清秀・元清(稙通)父子のもとで波多野氏は多紀郡に勢力を伸ばし、大永六年(1526)に元清が 管領細川高国に反旗を翻したときまでに、奥谷城の主峰である高城山に八上城を築いて居城を 移した。その後も奥谷城は八上城の有力支城として存続し、移城当初は大手も奥谷に開かれ、 城下町や根古屋も奥谷城時代のものを踏襲したと考えられている。 いずれかの時期に、城下町は高城山北麓の八上に移され、奥谷城も蕪丸と呼ばれて八上城の 一部に取り込まれた。 <手記> 奥谷城は八上城のある高城山の南西に派生する小峰に築かれた城で、名前の通り篠山盆地を 形成する篠山川から見て、やや奥まった谷あいに臨んでいます。上の地図にあるように、北麓の 集落の隙間から登ることができます。ただ、田んぼの畦を進んで倒竹の藪を抜けなければならず、 城域に至るまではやや一苦労です。 登った先は背後の大きな堀切で、その手前側斜面をスライドすると城内となります。とはいえ、 はっきりした登城路はなく、途中で竪堀を横切らなくないため足元に注意が必要です。 主郭の背後と先端側に腰曲輪が、北西中腹には帯曲輪があり、規模は大きいとはいえないもの の、先の堀切や竪堀に加え、主郭にははっきりと虎口が開いているなど整った形状をしています。 このことから、奥谷城は波多野氏の滅亡まで改修を重ねつつ、現役で使用されていたものと推定 されます。 |
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奥谷城跡近望。 | |
登城口のようす。 | |
背後の大堀切。 | |
北西斜面の竪堀。 | |
同上。 | |
竪堀脇の帯曲輪。 | |
主郭北西下の帯曲輪。 | |
主郭先端下の腰曲輪。 | |
腰曲輪から主郭を見上げる。 | |
主郭虎口。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
主郭背後の腰曲輪。 | |
主郭南東斜面の竪堀。 |