八上城(やかみ)
 別称  : 八上高城
 分類  : 山城
 築城者: 波多野元清か
 遺構  : 石垣、土塁、堀、曲輪、虎口、溜池
 交通  : JR福知山線丹波口駅からバスに乗り、
      「重兵衛茶屋」下車徒歩5分


       <沿革>
           多紀郡代波多野氏によって、奥谷城に代わる新たな居城として築かれた。正確な築城時期は
          明らかでないが、『細川両家記』の大永六年(1526)の記述に「矢上城」とあることから、このとき
          までには築かれていたとみられている。この年、波多野元清(稙通)は弟の柳本賢治とともに、
          もう1人の弟の香西元盛を殺害した管領細川高国に叛旗を翻し、翌年の桂川原の戦いで高国を
          近江国へ追い落とした。
           その後の波多野氏は高国の対抗馬であった細川晴元を支持したが、元清の孫元秀(晴通)の
          代の天文十七年(1548)に、細川家重臣三好長慶が晴元と対立して離反した。元秀の妹は長慶
          の正室であったが、このときに離縁されている。その後10年にわたり、八上城は何度も三好勢に
          攻め寄られたが、その都度撃退に成功した。しかし、弘治三年(1557)ないし永禄二年(1559)に
          三好氏重臣の松永長頼・久秀兄弟によってついに攻め落とされ、2人の甥といわれる松永孫六が
          城主となった。
           長頼は、丹波守護代内藤氏の名跡を継いで内藤宗勝と号して丹波国を支配していたが、永禄
          八年(1565)八月に丹波国人荻野直正との戦いで討ち死にした。これを受けて、翌九年(1566)
          二月に元秀が兵を挙げ、孫六が退去したことで八上城を奪還した。
           永禄十一年(1568)に織田信長が上洛すると、元秀の子秀治は織田氏に従属した。天正三年
          (1575)十月、織田家臣明智光秀が直正の居城黒井城を攻めると、秀治は明智方で従軍したが、
          翌四年(1576)一月に突如叛乱し、明智軍を背後から襲って敗走させた(第一次黒井城の戦い)。
           翌天正五年(1577)から、光秀は多紀郡侵攻を開始するが、本格的な八上城攻囲は播磨国で
          決起した別所長治への対処がひと段落した翌六年(1578)九月ごろ以降となる。厳重な包囲陣を
          布いた光秀は、金山城を築いて荻野・赤井氏との連携を断つなど、慎重かつ徹底した兵糧攻めを
          展開した。
           波多野勢は、籠山の付城へ出撃して明智方の丹波国人小畠永明を討ち取るなど激しく抵抗した
          が、兵糧が欠乏するようになると退去者が相次いだとされる。10か月ほどの籠城の後、天正七年
          (1579)六月一日に八上城はついに開城した。波多野秀治・秀尚・秀香の3兄弟は、降伏したとも
          調略された城方により捕えられたともいわれ、安土へ送られ磔に処された。開城の際、秀治らは
          身の保証として人質を要求し、光秀は実母を差し出したが、約束を違えて3兄弟が処刑されたため、
          光秀の母は憤激した波多野家臣により処刑されたとする言い伝えがある。しかし、攻城に難儀して
          いたわけではない光秀が実母を人質に出す動機は乏しく、今日では事実とは考えられていない。
           光秀は同年中に丹波国を平定し、八上城には光秀の従兄弟の明智光忠が入れられた。しかし、
          天正十年(1582)の本能寺の変および山崎の戦いで光秀が横死すると、丹波亀山城主となった
          信長四男で羽柴秀吉の養子羽柴秀勝の持ち城となったとみられるが、詳しい扱いは不明である。
          秀勝が同十三年(1586)に病没すると、同名で秀吉の甥にあたる羽柴(豊臣)秀勝が後釜となり、
          その家臣浅野和泉守らが八上城の城番として派遣されたといわれる。
           秀勝が天正十八年(1590)に甲斐へ移封となると、秀吉の義甥にあたる羽柴秀俊(後の小早川
          秀秋)が丹波亀山城主となったとされるが、この間の経緯や八上城の扱いについては、諸説あり
          明らかでない。文禄四年(1595)に秀俊が小早川隆景の養子として名島城主に転じると、五奉行
          の1人である前田玄以が丹波亀山城5万石に封じられた。
           玄以の子茂勝は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属したが、存命だった玄以の功績
          が考慮され、所領は安堵された上で八上への移住を命じられた。八上城は八上藩5万石の藩府と
          して再び歴史の表舞台に立ったが、峻険な山城部はほとんど顧みられず、山麓の居館(主膳屋敷)
          で政務に当たったとみられる。
           慶長十三年(1608)、発狂していたとされる茂勝は多くの家臣を殺害し、幕府により改易された。
          代わって松井松平康重が笠間藩3万石から八上5万石に加増されて入部したが、翌十四年(1609)
          に天下普請で篠山城を築いて移ったため、ここに八上城は廃城となった。


       <手記>
           八上城は、篠山盆地を睥睨する標高462mの高城山と、その東に派生する支峰を中心とした山城
          です。南西の峰先には八上築城以前の波多野氏の居城であった奥谷城があり、そのほか周辺に
          いくつもの支砦を設けて一大城砦群を成していたとみられています。
           カヌレのような特徴的な山容で比高は250mほどあり、国史跡として整備されて眺望も優れている
          ことから、一般のハイカーにも親しまれているようです。北西麓の春日神社口前には駐車場も完備
          され、さらに登山口には完成度の高いパンフレットも用意されているなど、なかなか他に類を見ない
          充実ぶりとなっています。登山道は大きく春日神社口と北麓から東尾根を回る藤木坂口、そして東
          の谷筋を進む野々垣口の3ルートがあります。春日神社口から登って藤木坂口へ下りると、ちょうど
          主な遺構を見学しつつぐるっと1周できるのですが、私の訪問時には藤木坂で崩落があったという
          ことで、東尾根先端の西蔵丸まで行って、元来た道を戻るコースを採らざるを得ませんでした。
           春日神社口から入ってすぐに、主膳屋敷を中心とする広い削平地群が現れます。主膳とは、前田
          主膳正茂勝を指すもので、八上藩時代の藩政の中心とされていますが、石垣は見られず、篠山城
          の石材として悉く運び去られたと考えられています。
           主膳屋敷からしばらく山道を登ると、北西尾根先の伝「鴻の巣」と呼ばれる曲輪に至ります。そこ
          からは尾根筋に下の茶屋丸や中の壇、上の茶屋丸といった曲輪が断続的かつ直線的に、山上の
          曲輪群まで続きます。縄張りとしては至って単調で、八上城の中世的部分を色濃く残しています。
           山上曲輪群は、本丸から北西尾根方面に二の丸・三の丸・右衛門丸が、本丸の東側1段下には
          岡田丸があります。右衛門丸背後と岡田丸背後の切岸には石垣が残存していますが、波多野氏と
          前田氏、どちらが構築したのかは判別が困難です。
           主郭群の後背には、谷筋を堰き止めた朝路池があり、今も満々と水を湛えています。両脇の尾根
          にはそれぞれ堀切と番所の曲輪が設けられており、水の手としては全国的にみてもかなり大規模
          なものと思われます。これほどの水源が確保できていたからこそ、飢えてなお10か月ほども籠城を
          続けられたのでしょう。
           さらに東方へ向かうと、茶屋の壇と呼ばれる小ピークの手前の尾根筋に、光秀の母を処刑したと
          伝わるハリツケの松跡があります。ただ、前述のとおりこの逸話は事実とは考えられていません。
          そもそも、攻囲されている状態での磔は見せしめの意味合いが強く、城外から目立つ場所で執行
          されるべきと思われるところ、ここはピークに囲まれ、見晴らしがいいとはお世辞にも言えません。
          もし、磔に類する処刑が行われたとしても、それはこの場所ではなかったでしょう。
           茶屋の壇の東には、馬駈場と呼ばれる尾根筋の細い平場が続きます。その北側斜面には竪堀
          が断続的に設けられていて、虎口状の開口部も1か所見受けられました。馬駈場の先には、芥丸・
          西蔵丸という2つの小ピーク上の曲輪があり、西蔵丸手前の堀切を下ると、藤木坂口に至ります。
           何度となく三好氏の攻勢を退け、歴史に残る籠城戦を展開しただけあって、八上城は山容険しく
          規模も壮大です。しかしながら、格好のハイキングコースとして登るのは難しくなく、また見どころも
          ほぼ1動線上に並んでいるため、とても見学しやすい城跡といえるでしょう。ちなみに、私は冬場の
          午前中に訪れたのですが、天気予報では快晴のところどんよりと曇っていて、下山しはじめたころ
          にやおら雲がすっきりと晴れました。飛騨の高山盆地などでも同様でしたが、山深い盆地とて朝方
          は霧や雲に覆われることが多いようなので、せっかくですからお昼前後に登城するのがおすすめ
          といえそうです。

 篠山城天守台から八上城跡(高城山)を望む。
 高城山の西に延びる尾根西端が西蔵丸。
主膳屋敷の切岸。 
 主膳屋敷跡。
主膳屋敷西側の曲輪。 
 伝・鴻の巣。
伝・下の茶屋丸。 
 伝・中の壇。
伝・上の茶屋丸。 
 北西尾根筋の腰曲輪。
北西尾根筋の堀切。 
 右衛門丸跡背後の石垣。
右衛門丸跡。 
 三の丸跡。
二の丸跡から本丸跡を見上げる。 
 二の丸跡。
二の丸から篠山城跡を望む。 
 本丸跡。
岡田丸跡。 
 岡田丸跡背後の本丸石垣。
同上。 
 伝・蔵屋敷。
蔵屋敷前方の切岸。 
 伝・池東番所。
池東番所先の堀切。 
 朝路池。
朝路池の谷西側尾根の堀切。 
 ハリツケの松跡。
伝・茶屋の壇。 
 茶屋の壇背後の切岸。
茶屋の壇脇の切岸。 
 伝・馬駈場。
馬駈場北側斜面の竪堀。 
 同上。
同上。 
 同上。
同じく虎口状開口部。 
 芥丸跡。
西蔵丸手前の堀切。 
 西蔵丸跡。
おまけ:朝霧に浮かぶ高城山。 


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