奥沢城(おくさわ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 大平氏
 遺構  : 土塁
 交通  : 東急大井町線九品仏駅徒歩5分


       <沿革>
           世田谷城主吉良氏の家臣大平氏の城と伝わる。築城年代は明らかでない。世田谷城の南方の出城として
          機能していたものと考えられる。天正十八年(1590)の小田原の役で後北条氏が滅亡すると、同氏の影響下
          にあった吉良氏の世田谷城や奥沢城も廃された。
           奥沢城主大平氏と主君吉良氏の間には、世田谷区の花となっている鷺草(サギソウ)にまつわる伝説が
          ある。北条氏綱の娘婿である吉良頼康は、奥沢城主大平出羽守の娘常盤姫を側室としていた。頼康は常盤
          を寵愛していたが、これを妬んだ他の側室が、常盤が不義をはたらいていると讒訴した。これにより常盤は
          次第に頼康から遠ざけられるようになった。悲しんだ常盤は、可愛がっていた白鷺の脚に身の潔白を訴える
          遺書を結わいつけ、両親のいる奥沢城へ放った。おりしくも奥沢城近辺で狩りをしていた頼康は、一羽
          の白鷺を射落とした。その脚に結ばれた常盤の遺書を読んだ頼康は急いで城へ引き返したが、時すでに遅く
          常盤は自害して果てていた。白鷺が射落とされた場所からは、鷺に似た白い可憐な花が咲くようになった。


       <手記>
           奥沢城跡には、九品仏の通称で親しまれる浄真寺が建っています。浄真寺の広い境内を、ちょうど正方形
          に土塁が囲っています。この土塁は、奥沢城当時のものであるといわれています。西から北にかけては墓地
          に転用されているものの、かなり良好に残されています。
           奥沢城は、真北向きの舌状台地に築かれ、台地の三方は、往時は湿地や深田でした。九品仏駅前の交番
          周辺は小字を「城前」といい、このあたりに大手が開かれていたと考えられています。
           このような立地、あるいは小字から縄張りを考察したとき、浄真寺四周の土塁が本当に城のものであるのか
          について、少し留保が必要なのではないかと思います。同じく緩やかな舌状台地の先端に位置している主君
          の居城世田谷城の曲輪は浄真寺境内よりも狭く、形も単純な方形ではありません。主家の居城以上に戦闘
          よりも居住性や優美性を意識し、規模も大きな城になってしまうことになり、少々違和感を感じます。
           なお、このほかに、浄真寺の山門である仁王門の南脇の土塁下に、消火栓の標柱と間違えそうなつつしま
          やかさで城址碑が建っています。


           
 浄真寺南西隅の土塁。
北西隅の土塁。 
 城址碑。
 浄真寺のようす。 
 おまけ:常盤姫の悲しい伝説の残る鷺草。


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