奥殿陣屋(おくとの) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 松平乗真 | |
遺構 : 書院、土塀 | |
交通 : JR岡崎駅または名鉄東岡崎駅よりバスに 乗り、終点「奥殿陣屋」下車 |
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<沿革> 大給藩3代藩主松平乗真は、大給が父祖伝来の地とはいえ山奥にあったため、正徳元年 (1711)に奥殿陣屋を建設して藩庁を移した(奥殿藩)。 奥殿藩8代藩主松平乗謨(大給恒)は、文久三年(1863)に若年寄へ昇進したのを機に、 藩庁を奥殿から信濃国佐久郡田野口へ移転させることを計画した。これは、奥殿が戦乱に 巻き込まれやすい場所にあることと、所領の多くが佐久郡にあったためとされる。同年中に 幕府から許可が下り、西洋の星型要塞を模した龍岡城の建設が始められた。このとき、 三河の領民は移転に反対する嘆願書を差し出したとされる。 龍岡城は未完のまま明治維新を迎えたため、奥殿陣屋の機能が完全に移されたか否か は定かでない。慶応四年(1868)に奥殿藩は龍岡藩と改称したため、奥殿陣屋は遅くとも このときまでに廃されたものと推測される。 <手記> 奥殿陣屋は、矢作川の支流巴川の支流郡堺川の支流霞川が形成する細長い谷戸の 入り口付近に位置しています。寺の庫裡になっていた陣屋の書院が昭和六十年(1985) に移築され、今は庭園や食事処、観光農園などが集まった観光施設となっています。 ただ、書院など建物の配置や向きは、残念ながら当時と同じではないようです。現在の 陣屋施設は山を背に東西方向に横長な配置ですが、当時は西向き南北方向に、谷戸を 塞ぐような形状をしていたようです。 7代藩主乗友の五男は、裏千家に養子入りして玄々斎宗室となりましたが、書院では それにあやかってお抹茶をいただくことができます。壁には玄々斎宗室生誕の地と掲げ られているのですが、大名の子なので江戸で生まれて奥殿の地を踏むことはなかった んじゃないかな…とも思いました。 敷地内の資料室によれば、県道338号沿いに陣屋を囲う土塀の一部が残っているとの ことでした。その場所は上の地図の緑点に示したあたりで、民家の外壁となっています。 運よく家の方がちょうど帰宅されたときだったので、おうかがいして見学させていただき ました。貴重な遺構だと思うのですが、家の方はあまり関心がないようで、こちらも少々 もったいなく感じました。 |
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移築書院門前。 | |
書院を見越しに望む。 | |
土塀。 |