大給城(おぎゅう)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 長坂新左衛門か
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、堀、虎口、井戸
 交通  : 名鉄豊田市駅よりバスに乗り、
       「大内」下車徒歩25分


       <沿革>
           詳しい年代は不明だが、15世紀中ごろに岩津城主松平信光が、この地の土豪長坂
          新左衛門を攻め下し、三男親忠を配した。大給城はもともとこの長坂氏の城館だったと
          されるが、新左衛門が築いたものかは確証がない。長坂氏といえば、「血鑓九郎」の
          異名で知られる松平家臣長坂信政がいるが、信政は小笠原氏庶流の幕臣の家系と
          されることから、大給城主長坂氏とは関係がないものと思われる。
           15世紀末葉には、親忠は安祥城へ移って安祥松平家を興し、大給城を次男の乗元
          に与えた。乗元とその子乗正は、永正七年(1510)までに城の改修を行ったとされる。
          乗元の子孫は、十八松平のひとつ大給松平家となった。
           乗正の孫親乗の代の天文二十一年(1552)、大給城は今川義元の意を受けた同族
          の東条松平忠茂に攻められた。今川氏への従属を強める松平宗家に、大給松平家が
          反抗的な態度を示したためとされる。弘治二年(1556)には、親乗は親今川・宗家方
          の滝脇松平家を攻め、乗清・乗遠・正乗の3代親子を敗死させた。
           他方で、親乗・真乗父子は宗家の松平元康(徳川家康)に幼少期から近侍していた
          とされ、桶狭間の戦い以降は宗家に従属していたと思われる。ただし、必ずしも従順
          とはいえなかったようで、近隣の松平諸家としばしば争いを起こしていたといわれる。
           天正三年(1575)、滝脇松平正乗の弟乗高は、復讐として大給城を急襲し、親乗を
          尾張国へ追い落とした。大給松平家はその後も存続したが、大給城についてはこれ
          以降の記録がない。早ければこの時点で、遅くとも同十八年(1590)に家康が関東
          へ移封となった際に、廃城となったものと考えられる。


       <手記>
           江戸時代に西尾藩岩村藩府内藩奥殿藩として続いた大給松平家発祥の城
          とされています。私が訪れたときは、ちょうど上の地図にある松平トンネルができて
          間もないころだったようで、車があれば豊田松平ICから5分程度で行けます。北東
          麓に「松平郷 松平氏遺跡」等と書かれた看板があり、そこから山道を上がると数台
          分の駐車場があります。駐車場からさらに少し登ると城山入口があり、そこからまた
          5分とかからず、まずは初代松平乗元の墓所に出ます。この墓は大給松平家が江戸
          時代に建てたもので、城外のようです。
           墓所からもう少し歩くと、ほどなく主城域東端の堀切に到着します。その向こうには
          石塁を伴った喰い違い状の虎口があり、早くもテンションが急上昇するでしょう。虎口
          をくぐらず右折すると、城内最大の遺構かつ特徴の、2段の水の手曲輪があります。
          もちろん、虎口を抜けるのが主郭への正規ルートですが、どちらを優先するかは人に
          よりけりでしょう。私はとまれ主郭をまず目指したいタチなので、下の写真はその経路
          に従っています。
           現地の説明板では、大給城の大きな曲輪は3つ、サンライズ出版の『愛知の山城
          ベスト50を歩く』では4つに分けられています。両者の違いは、最高所にある櫓台状
          の曲輪をカウントするかしないかにあります。どちらも、最高所1段下の仕切り石垣に
          囲まれた区画を主郭としている点では同じです。とくに『山城』では最高所の櫓台状
          曲輪が主郭ではないという点を強調しているようですが、私としては、そこはどちら
          でも大差はないんじゃないかな、と感じています。
           むしろ特筆すべきは、その石垣の北東端付近に隅石が用いられ、算木積み様に
          なっている点です。このことから、最終的な改修時期は少なくとも織田信長の上洛
          以降ではないかと推察されます。おそらくは、元亀三年(1572)の武田信玄による
          西上作戦や、天正三年(1575)の長篠の戦いに際し、武田氏に備える目的で改修
          されたと考えるのが妥当と思われます。
           主郭から南へ下りると、尾根先に城中最大の曲輪(現地説明板でV曲輪。以下
          現地説明板に則ります)があります。この曲輪は城内のどの箇所と比べても、防御
          の意志が著しく低い備えとなっています。ところどころに石塁も見られますが、曲輪
          形成というより土留めのような配置で、ここだけ城砦というより館建築のような造作
          に見受けられます。『山城』ではここを居館部としており、非戦闘スペースとする点
          では私も同意見です。ただ、ここだけあまりに開けた空間になっているので、後世
          の改変がある可能性についても、同書は指摘しています。この点、私は正徳元年
          (1711)まで存在した大給藩の陣屋跡の可能性もあるのではないかと感じました。
          松平真乗の子真次は、大坂の陣の功績によって父祖の地の大給に加増を受け、
          奥殿へ移るまで大給藩が存在していました。その陣屋がどこにあったかは定かで
          ありませんが、大給城のV曲輪は、代官所程度の陣屋を設けるには十分な広さ
          ではないかと思うのです。また、大給の集落はV曲輪のすぐ麓にあり、あるいは
          大給松平家の初期の館も、ここに設けられていたのかもしれません。
           さて、最大の特徴といっておきながら後回しになりましたが、主城域の北に延びる
          沢筋には、さながらロックフィルダムともいえる2つの大規模な堰き止め石垣があり
          ます。貯水を目的としていることは容易に想像できますが、面白いのは下段の曲輪
          に、別に井戸と思しき方形の石組みが認められることです。この井戸は、水が十分
          に溜まっているときは、おそらく水底に沈んで見えなくなっていたでしょう。つまり、
          水の多い時期には2段の溜池にたっぷりと貯水し、渇水期でも下段の曲輪の井戸
          に水が集まるようにしていたのだと考えられます。
           全体的に、大給城は織豊系城郭に近い先進的な技術の用いられた城といえる
          でしょう。他方で、城山はそれほど急峻とはいえないうえに、とにかく露岩が多く、
          曲輪形成にかなり制限があったものと推察されます。大給松平氏が、独力でこの
          岩だらけの山を実用的な城砦とするのは少々難しいようにも思われ、初期の城域
          がどれほどのものであったかは、留保が必要ではないかと考えています。

           
 東端の堀切。
堀切の先の石塁を伴った喰い違い状虎口。 
 U曲輪の虎口。
U曲輪の内部。 
右奥の櫓台が城内最高所。 
 U曲輪の内側に石塁を伴った土塁。
主郭北東端の石塁。 
 同じく、算木積み様の隅石を伴った箇所。
主郭の仕切り石垣。 
 同石垣を内側から。
主郭のようす。 
 城址碑。
城内最高所の櫓台状土塁の上。 
詰曲輪とすればよいのでは…。 
 櫓台状土塁西方の露岩。
 こちらもほぼ最高所。
主郭西端の通称物見岩。 
 物見岩からの眺望。
主郭南側の虎口。 
 V曲輪を俯瞰。
V曲輪付け根付近の石塁。 
 主城域西端の堀切。
前出、隅石下方付近の竪堀。 
 水の手曲輪上段の堰き止め石垣。
上段の水の手曲輪を俯瞰。 
 下段の水の手曲輪を俯瞰。
下段の堰き止め石垣。 
 下段の水の手曲輪にある石組み遺構。
 井戸跡か。
水の手曲輪と東端の堀切の 
中間にある仕切り石垣。 
 同上。
 右手は竪堀となっています。
東端の堀切脇の土留め石垣。 
 松平乗元墓。


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