小坂城(おさか)
  別称  : 桜城
  分類  : 山城
 築城者 : 小坂氏
  遺構  : 消滅
  交通  : 中央自動車道諏訪ICより車で40分


       <沿革>
           小坂を領した小坂氏は、鎌倉時代初期に諏訪家総領諏訪敦忠の子助忠が小坂郷を
          拝領したことにはじまる。小坂城址の麓には殿屋敷などの字名が残っており、小坂氏が
          代々ここに居住していたことはうかがえるが、山上に城が築かれた経緯や時期は明ら
          かでない。
           諏訪氏は祭祀を司る大祝家と政治や軍事を担う総領家に分裂し、天明十五年(1483)
          にいわゆる天文の内訌を起こした。このとき、小坂氏は総領家に属して、下社金刺氏と
          結んだ大祝家に勝利した。城はこの前後に築かれたのではないかと考えられる。
           武田晴信(後の信玄)が諏訪に侵攻して総領家諏訪頼重を滅ぼしたときには、高遠
          頼継らとともに晴信に味方した。しかし、晴信が上田原の戦いで村上義清らに大敗を
          喫すると、小坂氏や有賀氏、花岡氏などの諏訪西方衆は、小笠原長時に呼応して天文
          十七年(1548)に武田氏に反旗を翻した。
           この反乱は晴信によって同月のうちに鎮められ、小坂氏も他の西方衆とともに滅ぼ
          された。小坂城もこのときに廃城されたと考えられる。ただし、神職としての小坂氏は
          継続したようで、諏訪大社の御頭勤仕を幕末まで務めている。現地の案内板では、
          廃城時期について武田氏が滅亡した天正十年(1582)としており、詳らかでない。


       <手記>
           小坂城の中心部を中央自動車道が走り、遺構はほぼ消滅しています。ただ、建設に
          先立って発掘調査が実施され、遺構の全貌は明らかにされています。それによれば、
          方形に土塁を廻らした主郭を中心に、尾根口を空堀で遮断し、周囲に腰曲輪を数段に
          配置した、防御設備の整った城であったようです。
           今では、残った城山の東側斜面に中央道建設の後に建てたか、もとからあったか
          はわかりませんが、祠が祭られています。また、高速の西側、地元の湧き水である
          山ノ神湧水の水源取水所裏手に城の由来が記された案内板があります。
           小坂集落の小坂観音院には、井上靖の小説『風林火山』で武田勝頼の生母諏訪
          御料人(由布姫)が死去した地とされたことから、その墓が建てられています。大河
          ドラマで再び大きく扱われたことから、地元では由布姫終焉の地として大々的に宣伝
          しています。
           小坂城にしても観音院にしても、最大の難点は道がとにかく狭いことです(諏訪全体
          にいえることですが)。地元の人に道を聞くまでは、このまま行っても大丈夫か非常に
          不安でした。
           


小坂城址遠望。藪の裏手が中央道で、主郭があったところ。


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