小田井城(おたい) 付長倉城(ながくら) |
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別称 : 尾台城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 小田井副親か | |
遺構 : 堀 | |
交通 : しなの鉄道御代田駅またはJR小海線岩村田駅よりバス 「小田井上宿」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 『長野県町村誌』によれば、大永年間(1521〜28)に小田井(尾台)吉六郎副親に よって築かれたとされる。また、同書にはこれに先立つ応仁・文明年間(1467〜86) に、信濃守護小笠原長秀の後裔長澄がこの地に拠っていたとある。ただし、副親も 長澄も実在が確認されておらず、築城の経緯は詳らかでない。また、小田井氏の 出自についても不明である。 天文十三年(1544)冬、佐久へ侵攻した武田晴信軍が小田井城を攻めた。ときの 城主小田井又六郎信親・二郎左衛門(又七郎)信治は激しく抵抗したが、敗れて 一族郎党ことごとく討ち死にしたとされる(『甲陽軍鑑』『妙法寺記』など)。 天文十六年(1547)、武田軍と関東管領山内上杉氏の軍勢が小田井城の近くで 激突したとされるが(小田井原の戦い)、この戦いに小田井城が関わっていたかは 定かでない。 天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して、碓氷峠から佐久へ侵入した北条軍 のうち、大道寺政繁が一時小田井城に滞在したと伝えられる。佐久地方はその後、 徳川方に属した蘆田(依田)信蕃によってゲリラ的に制圧され、小田井城も信蕃の 手に落ちたとみられている。そして、同年中に同乱が終結すると、そのまま廃城と なったものと考えられている。 <手記> 小田井城は、久保沢と井戸沢という2つの谷川に挟まれた細長い台地を利用した 城です。細長いといっても、台地の付け根を堀切で断って独立させた城内の面積は かなり広大です。現在も、城内への入口はこの堀切をまたぐ土橋1本だけで、城跡 のほぼ全域が畑地となっています。 大手の堀切手前と城内中央やや北の大空堀脇、そして中央やや南にある井戸跡 の3ヶ所に標柱および説明板が設置されています。大手の堀切は、深さ・幅ともに 規模が大きく、特筆すべきは堀底に蔀のように土塁が設けられ、あたかも二重堀の ようになっていることです。おそらくは、武田氏による改修の跡と思われます。 井戸跡とされるところの畑は、かつては「スリバチ畑」と呼ばれる浅い窪地だった そうです。井戸跡の先は、1段・2段と下がって台地先端に向かうため、ここまでが 主郭に相当する区画だったものと推測されます。 城内中央やや北に位置する大空堀もとてもよく残っており、大手堀切と合わせて 小田井城最大の見どころとなっています。この空堀は東西方向に設けられており、 これを西に進むと、今度は南北方向の空堀とT字に交わります。この南北方向の 堀を南に進むと、カーブを描いて久保沢の河岸に出ます。北に進むと、また同じく 西の河岸に向かう堀とのT字路があり、その北は大手堀まで続いていたようです。 これらの堀は高低差のない台地を縦横に張り巡らされており、要害性を高めると いうよりは、広大な城内を区画わけしているかのように見受けられます。個人的な 感想として、小田井城小田井一族やその周辺の入植者全員が居住し、開拓した 環濠集落的なものだったのではないかな、と思いました。周辺にはいくつかの支城 を配していたとされており、あるいは小田井氏は、滋野一族や大井氏族が割拠する 佐久における後発の開発領主として、この地に食い込もうと一族一丸となって奮闘 していたのではないかな、などと想像をたくましくしてしまいました。 小田井城から久保沢を挟んだ北西の細尾根には、支城の1つ長倉城があったと されています。支城というよりは、出城ないしは出丸といった方が正しいような気が しますが、こちらは現在鶏舎になっているようで、立ち入ることは難しそうです。 |
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井戸跡に立つ城址標柱。 通称スリバチ畑跡。 |
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中央大空堀跡と城址説明板。 | |
スリバチ畑付近から城内北方を望む。 背景は浅間山。 |
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スリバチ畑付近から城内先端方向を望む。 | |
大空堀西端。 南北方向の空堀とT字に交わっています。 |
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南北方向の空堀北側を望む。 青ビニールのあたりでまたもT字に交わってます。 |
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南北方向の堀跡北端付近のようす。 | |
城内付け根の大堀切。 | |
大堀切堀底の土塁。 | |
長倉城址を望む。 |