ラインシュタイン城 (Burg Rheinstein) |
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別称 : ボニファティウスベルク城、ファウテスベルク城 ファルスベルク城など |
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分類 : 山城(Höhenburg) | |
築城者: マインツ大司教か | |
交通 : トレヒティングスハウゼン駅徒歩30分 | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> 築城者と築城年代についてはよく分かっていない。1241年にボーランデン公ヴェルナー4世に よって築かれたとも、1260年にフィリップ・フォン・ホーエンフェルスが築いたともいわれる。記録 に初めて現れるのは1323年で、マインツ大司教ペーター・フォン・アシュペルトの所有としてで ある。近年の調査により、築城が開始されたのは1316年ないし翌1317年と推定され、ペーター による築城であるとの見方が強まっている。 建造年代の不確実さに比して築城の理由は明らかであり、ラインシュタイン城の北方わずか 2km弱のところにあるライン宮中伯のライヒェンシュタイン城に対抗するためであった。「ライン シュタイン城」というのは後世の呼び名であり、当初はマインツ大司教のパトロンの名をとって 「ボニファティウスベルク城」と呼ばれていた。 14世紀半ばにはライン宮中伯がライヒェンシュタイン城から撤退したため、ラインシュタイン城の 戦略的価値は早々に失われてしまった。1459年には、城とアスマンスハウゼンの村がマインツ 大司教からマインツ大聖堂神学校長フォルペルト・フォン・ドレースに与えられた(このとき城は 「ファウテスベルク城」と呼ばれていたとされる)。1572年には、マインツ大聖堂管理役で出納長 のアントン・フォン・ヴィルトベルクに与えられた。 アントンは死ぬまで自分の居所として使っていたが、彼自身はラインシュタイン城に経済的な 価値はないと考えていたといわれる。アントンが死ぬと、城は朽ちるに任せていった。 1688年にプファルツ継承戦争が始まったとき、ラインシュタイン城はすでに倒壊を待つばかり の廃墟となっていたが、フランス軍は周辺の城と同様にこの城も爆破した。1779年にアイス家が この城(当時はファルツベルク城と呼ばれた)を買い取ったが、1822年には、わずか4ターラーと いう値段で参事官ヨハン・ヤーコプ・フォン・コルに再び売却された。 翌1823年、城はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の甥フリードリヒ・フォン・プロイセン によって買い取られ、1825年からネオ・ゴシック様式での修復が開始された。1829年に工事が 完了し、城はフリードリヒによってファルツベルク城から現在のラインシュタイン城に改称された。 その後、ラインシュタイン城はフリードリヒの子孫や王族・貴族が相続し、1953年にはプロイセン 王女バルバラの所有となった。バルバラは1973年に城を売りに出したが、立地の険しさと修復 費用がかさむことから買い手がつかず、城のあるラインラント=プファルツ州でさえ買い取りを 拒んだ。 最終的に、1975年にオペラ歌手のヘルマン・ヘッヒャーが購入し、今もヘッヒャー家の所有と なっている。 <手記> ライン渓谷の切り立った岩の上に建ち、日本人がドイツの古城といって思い浮かべるものの 典型ともいえる城です。しかし、そのような無骨な古城っぽさと裏腹に、今も昔も戦略・経済的 に「持っていてもどうしようもない城」のように見られていたとは、なんとも皮肉です。 たしかに、船から眺めるには良いのですが、歩いていくとなったらかなり覚悟が必要な感じ です。対抗心で建てられただけに立地と見栄えは峻険荘厳なものの、実用性はというとかなり 怪しいと言わざるを得ません。 |
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ラインシュタイン城近望。 |