ライヒェンシュタイン城 (Burg Reichenstein) |
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別称 : ファルケンブルク城 | |
分類 : 山城(Hohenburg) | |
築城者: ゲルハルト・フォン・ラインボートまたは フィリップ・フォン・ボーランデン |
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交通 : トレヒティングスハウゼン駅徒歩15分 | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> ライヒェンシュタイン城周辺は、中世にはアーヘンのコルネリミュンスター修道院の領地であった。 城は、1213年に築かれたとされている。しかし、同年にこの地の代官がゲルハルト・フォン・ライン ボートからフィリップ・フォン・ボーランデンに代わっているため、どちらが直接の築城主かは不明で ある。 フィリップの子ヴェルナーによって、城はライヒェンシュタイン城と命名された。1253年にライン都市 同盟との争いで攻め落とされたともいわれているが、確証はない。1270年にコルネリミュンスター 修道院は、アーヘンから遠く離れたライヒェンシュタイン城周辺の領地を売却することとし、城と領地 はマインツ大司教領となった。 1282年、ライヒェンシュタイン城は神聖ローマ皇帝ルドルフ1世によって攻められ、落城した。城主 ディートリヒ・フォン・ホーエンフェルス=ライヒェンシュタインは捕えられ斬首された。城はしばらく 廃墟となっていたが、1290年に周辺の土地がライン宮中伯の領地となるに及び、境目の城として 再建された。 これに対して、南隣のマインツ大司教はラインシュタイン城(当時はボニファティウスベルク城)を 築いて対抗した。1344年には皇帝ルートヴィヒ4世の仲介により、ライヒェンシュタイン城はマインツ 大司教の要望を容れて放棄されることになった。その後も所有者はたびたび替わり、城は次第に 朽ちていった。16世紀初頭には、すでに倒壊寸前になっていたといわれる。 1688年にプファルツ継承戦争が始まると、廃墟と化していたライヒェンシュタイン城はフランス軍に 爆破された。18世紀初めごろから、城のある山は逐次ブドウ畑に転用されていったが、城そのもの は18世紀末まで税関として機能していたとされる。 1834年、プロイセンの陸軍少将フランツ・フォン・バルフスが城を買い取り、自身の居住用に改築 したうえ、ファルケンブルク城と改名した。1899年に所有者となったニコラウス・フォン・キルシュ= プリツェリは、1902年にかけて大規模な城の復元工事を行った。今日のフォルムは、このときの 改修によるものである。ちなみに、このライヒェンシュタイン城の改修は、18世紀末から19世紀に かけて流行した、ライン渓谷の城郭復興運動(いわゆる「ラインロマンティーク」)の最後のもので ある。 1986年にホテル会社に売却されたが、今は博物館となっている。 <手記> ライヒェンシュタイン城は、南わずか2km弱のところにラインシュタイン城があるために、ものすごく 紛らわしいことになっています。ただ、意味はまったく異なっていて、和訳するならラインシュタインが 「ラインの山城」といった感じなのに対し、ライヒェンシュタインは「(おそらく)帝国の山城」を指す ものとなります。 ライヒェンシュタイン城の特徴は、南北に細長いことでしょう。後世の改修によるものと思いますが、 地形上の要害性はさほどではないため、なんとなく間延びした印象を受けます。現在は博物館など になっているということで、車などで近くに行くことがあれば立ち寄るとよいと思います。 |
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ライヒェンシュタイン城を南から望む。 | |
ライヒェンシュタイン城を北から望む。 |