三枝氏館(さえぐさし)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 三枝氏
 遺構  : 土塁・削平地か
 交通  : JR中央本線石和温泉駅よりバス
       「南野呂公民館前」バス停下車徒歩5分     


       <沿革>
           三枝氏は、大和朝廷時代に中央から派遣された古代豪族で、三枝守国を初代とする。
          三枝氏は野呂を中心に勢力を拡大したが、当館がいつごろ築かれたのかは定かでない。
          また、戦国時代に武田二十四将に数えられた三枝守友(昌貞)らと古代三枝氏との関係
          についても詳らかでない。守友やその父虎吉は、今の中央市木原に居館を構えていた。
           天正十年(1582)に武田家が滅亡した際、野呂の守国神社は織田軍の兵火を受けて
          焼失した。館がこのころまで存続していれば、このときに同じく焼亡したものと推測される。
          守国神社は、寛文六年(1666)に守友の子孫である旗本三枝守俊によって再興された。

          
       <手記>
           南野呂の大宮神社(守国神社)は、その名の通り三枝守国を祀った神社で、その周囲
          に「東御所」「西御所」の小字があることから、一帯に城館跡の存在が擬されています。
          伝承レヴェルでは、この両「御所」と守国を直接結び付けるものもあるようですが、古代
          豪族の居館としては、必ずしもメジャーな立地とはいえないような気がします。
           他方で、武田氏重臣として知られる三枝氏は、上記の通りずっと西の木原を本拠地と
          していたとされ、姓についても山県氏も併用していたとされるなど、古代三枝氏との関連
          は、だいぶ不透明であるように思います。戦国時代にここに城館があったとしても、それ
          はおそらく三枝氏のものではなかったのではないかと、個人的に推測しています。守国
          神社は天正十年までにはすでに存在していたわけですから、あるいは境内を利用した
          小要塞だったのかもしれません。
           大宮神社は、北に田草川を見下ろす河岸の高台にあり、同じ河岸を少し遡ったところ
          には岩崎館があります。小城館を営むには適地と思われますが、遺構については判然
          としません。本殿脇に土盛りと一段下の削平地が見受けられますが、城の遺構なのか
          神社の造営によるものかは不明です。

            
 大宮神社(守国神社)。
本殿脇の土盛り。 
 本殿北側一段下の削平地。


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