桃井播磨守館(もものいはりまのかみ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 桃井直常か
 遺構  : 不詳
 交通  : 横浜市営地下鉄グリーンライン高田駅徒歩10分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』の高田村の項に、「桃井播磨守某館跡」として記載がある。
          それによれば、天神社の西にある「天神の原」が館跡とされる。天神社こと高田天満宮
          の縁起では、神社の北にある興禅寺の法印が当地で起きる天変地異を榊の枝をもって
          鎮め、それに感じ入った桃井播磨守直常が、勧請して創建したとされる。
           直常は上野国群馬郡を本貫地とする武将で、14世紀中期の観応の擾乱に際して、
          足利直義方の有力武将として活躍した。ただし、その晩年や最期については詳らかで
          なく、高田村周辺に所領を有していたとする証拠もない。
           永禄二年(1559)成立の『小田原衆所領役帳』よれば、恒岡弾正忠が「稲毛高田村」
          に32貫文余を領していたとある。いわゆる稲毛領と呼ばれる橘樹郡内には高田村は
          存在せず、『小田原編年録』ではこれを橘樹郡高石村の誤りではないかと推測している。
          これに対して『集註小田原衆所領役帳』では、都筑郡高田村の誤記ではないかとみて
          いる。この場合、桃井播磨守館跡は後に恒岡氏の居館となったとも考えられる。
           弾正忠の所領は江戸近辺などにも散在しているが、稲毛高田村の貫高が最も大きい。
          恒岡氏は太田氏の庶流とされるが、弾正忠の素性については詳らかでない。

       <手記>
           高田小学校周辺が小字「天神原」と呼ばれていて、『記稿』の記述にしたがうならば、
          この辺が館跡ということになります。ただし、小学校周辺はなだらかな丘陵の頂部で、
          その名の通りだだっ広い原野です。時代を問わず、武士の居館が置かれるにはあまり
          相応しくない場所のように思います。
           天神原の東、というより南東にある高田天満宮は、天神原の丘から飛び出した峰の
          先端に位置しています。こちらの方は、小規模ながらやや要害地形といえ、館背後の
          物見くらいには使えたのではないかと考えられます。社殿背後には一応土塁のような
          土盛りが見受けられますが、遺構であるかは判断できかねます。
           天満宮周辺で南北朝時代の武士の館が置かれていたとするなら、むしろ北麓ないし
          南西麓が妥当ではないかと拝察されます。北麓には興禅寺があり、天満宮の縁起が
          正しければ、ここには直常の神社創建以前から、すでに同寺があったことになります。
           このあと周囲を歩き回ったところ、それら以上に館地形としてふさわしいように思える
          箇所が、小学校の南西麓にありました。塩谷寺が建っているあたりで、ここは袋状の
          谷戸の奥にあたります。『日本城郭大系』によれば、塩谷寺からさらに西に300mほど
          行った、袋状の谷戸の入口付近を字「じょうのこし」といい、天神原を横断する古道が
          走っていたとされています。この点からも、もし高田村に武士の居館が営まれていたと
          すれば、塩谷寺周辺に城館跡を比定することは妥当な推測であろうと思われます。

           
 高田小学校を北側から望む。
高田天満宮。 
 天満宮社殿背後の土塁状土盛り。
天満宮周辺からの眺望。 
 塩谷寺。
 館があったとすればこちらではないかと推測されます。


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