小野城(おの) | |
別称 : 要谷山城、根小屋城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 小野高吉 | |
遺構 : 石塁、堀、曲輪跡、土塁 | |
交通 : 東武佐野線田沼駅よりバス 「根小屋森林公園」下車徒歩20分 |
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<沿革> 天正年間(1573〜90)の初めに、佐野氏家臣小野高吉によって築かれたとされる。 同十二年(1584)、高吉とその兄弟は隣領の足利長尾顕長の家臣小曾根筑前守に よって謀殺され、城も小曾根氏に奪われたとされる(『佐野記』)。 翌天正十三年(1585)、佐野宗綱は須花峠を越えて顕長を討とうとしたが、反対に 討ち取られた。小野城はこの前後に廃されたとされるが、詳細は不明である。 <手記> 小野城は、彦間川上流の小盆地を見渡す要谷山(ようがいさん)に築かれています。 佐野市のHPでは要谷山城とされ、また根小屋城の別称もあるようですが、要谷山も 根小屋もそれ自体が城館跡を示すものなので、当時の呼び名とは思えません。他方 で小野城というのも小野氏の持ち城という意味でしょうから、実際のところ正式名称に ついては定かでありません。 城山の中腹から西麓にかけて根小屋森林公園という保存林になっていて、駐車場 も完備されています。公園の入り口脇にある根本山神社が館跡とされ、低い石垣が 巡っていますが、遺構かどうかは判断に窮します。 山頂までは登山道が整備されているので、迷うことはないでしょう。途中の峰先に 小さな祠があり、祠の大きさに比べて立派な石垣で囲まれています。さすがにこの 石垣は後世のものと思いますが、その付け根には堀切跡のような人工の切れ込み があり、あるいは出丸が置かれていたのかもしれません。 主城域は、山頂の主郭の東西南北に腰郭を付属させ、峰続きの北を堀切で断つと いう、比較的シンプルなものです。ただ、随所に石積みが残存しているのが特徴で、 天正年間の築城および廃城という歴史を裏付けているように感じられます。石積みは 直接曲輪形成に寄与していないような箇所が多く、唐沢山城と同程度に城山全体を を覆っていたが、あるいは土留めが主目的だったものと推測されます。 『日本城郭大系』では、小野城を須花峠と近沢峠を結ぶ交通の要衝としています。 ですが、少なくとも須花峠は城からやや遠く、変事に機敏に対応するのは難しい場所 にあります。他方で、城下の小盆地は彦間川の源流近くにもかかわらず穏やか且つ 面積があり、佐野氏の領内でも生産性の高い地域だったと拝察されます。そのため、 佐野領の背後を窺うと同時に多くの人員を養えるこの飛駒の盆地を押さえることは、 足利長尾氏が北条方に、そして佐野氏が佐竹・宇都宮方に属して対立していた間は とくに重要だったと考えられます。 佐野宗綱の戦死後、佐野家は内紛の後に北条氏康の子氏忠を養子に迎え、北条 陣営に加わります。これによって長尾氏と合戦におよぶ可能性は低くなり、小野城の 必要性もほとんどなくなったはずです。さらに言えば、佐野氏が北条一門に連なった ことで、小曾根氏に奪われていた小野城および飛駒盆地も返還され、このときに廃城 とされたとすると、ストーリーとしてすっきりするのかなと感じました。 |
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小野城跡を望む。 | |
主郭のようす。 | |
主郭下の石積み。 | |
同上。 | |
主城域後背の堀切。 | |
同上。 | |
主郭南側の腰曲輪。 | |
同じく東側の腰曲輪。 | |
同じく北側の腰曲輪。 | |
同じく西側の腰曲輪。 | |
主城域下の石積み。 | |
同上。 | |
同上。 | |
中腹峰先の祠周囲の石積み。 | |
祠付け根の堀跡状地形。 |